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2006年09月 アーカイブ

2006年09月17日

古海道の家・Ⅱ


今年4月に完成した小住宅です。
構造材である柱、梁を古民家のように真壁造りとしてすべて現し、壁面を左官材ではなくシナベニヤで仕上げた「現代の木の家」です。

木造住宅の外壁材の選択は常に大きな課題となりますが、この建物は外観の全周囲が見えるという特殊な立地条件でローコストとデザイン性を両立させた大判のサイディングを使用しました。割付や端部の処理を考慮することによりセメントパネルのような仕上がりになっています。

2階のLDK天井は片流れの屋根勾配そのままに構造垂木を化粧で仕上げ、大屋根に包まれた安心感と開放感ある空間創りを心掛けました。

床材、階段材はすべて吉野ヒノキを用い、デッキテラスの床、板塀やLDK床の黒塗装は施主ご夫婦自ら何日も夜遅くまでかかって塗装されたものです。

2006年09月18日

『魔女の宅急便』

ビデオを借りてきて見ました。時にはこういうほっとさせてくれる映画を見て、気持ちをリフレッシュすることも必要でしょう。

舞台になっている街は、ヨーロッパのいろいろな街の寄せ集めのようです。最初は南フランスだと思っていたのですが、ときどきドイツやオランダ風の建築が出てきます。

ジブリの作品で共通しているのは、背景が細かく描きこまれていることです。写真と間違えそうになる位です。それに対して、人物はアニメキャラですから、ときどきアンバランスに感じることもあります。リアルな画像とデフォルメされたキャラクターとの関係は、現実には逆ではないかと思うのです。つまり自分も含めた人物というのは、最も身近でリアルなはずで、遠く離れた背景は、身近でない分だけ想像で補わなくてはなりません。自分を中心として、自分から離れるほどリアルさの度合いが小さくなっていくというのが、日常的な感覚ではないかと思うのです。ジブリの作品は、そうした日常的な感覚を意図的に逆転させているのではないかと推測してみたくなります。

背景の描きこみかたも一様ではなく、細かい描写もあれば、すぐにアニメとわかるものもあります。これは意図的に描き方に差をつけているのでしょう。こうした描写の細かさの差は、いくつかの解釈が可能です。人物などはたとえアニメキャラでも、感情移入することでリアリティを獲得するのに対し、背景となる街や物は、別の方法でリアリティを与えなければなりません。背景を重点的に描写するというのは、作品全体にリアリティを持たせるためには有力な手段なのかもしれません。

しかしもう一歩踏み込んだ解釈もあり得るのではないかと思います。人物や身近な持ち物などが可変であるとすれば、街や自然は不変です。可変というのは、キャラクターを物語の中でどのように動かすかを作者が自由に設定できるということです。それに対して不変は、作者の力では動かすことができないものです。背景の細かな描写には、不変なものへの敬意が込められているのではないかと思うのです。他のジブリの作品でも、それは共通しています。たとえストーリーはSFであっても、自然の象徴として森などが必ず出てきます。

ここであらためて、リアルであるというのはどういうことなのかと考えさせられます。自分も含めた身近なものがリアルなのか、あるいは人間の意志ではどうにもならないもっと大きな存在こそがリアルなのかと。両者のリアルは、相反するのではなく、どこかで繋がっていて、互いに根拠を与え合っているのかもしれません。それにしてもリアルが主観なのか客観なのか、それは非常に大きなテーマだと思います。ジブリ作品の通奏低音は、実はそのあたりにあるのではないかと感じています。

2006年09月21日

ワシリーチェア(Wassily chair)

椅子のデザインは実に様々です。その中で私が一番好きなのは、このワシリーチェアです。
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この椅子は、マルセル・ブロイヤーがバウハウスに居た頃(1925年)にデザインしたアームチェアです。ワシリーは、ロシア出身の抽象画家カンディンスキーのファーストネームで、この椅子はカンディンスキーのためにデザインされました。カンディンスキーは、当時バウハウスで教授をしていたので、バウハウスでのブロイヤーの同僚にあたります。

自転車のフレームからヒントを得たというスチールパイプの構造は、基本的には縦横のグリッドで組まれています。一見してモダンだと感じるのはそのためです。ただし角はパイプを曲げるのに適した曲率になっています。すべてを直線で構成するというコンセプトを優先させれば、角も鋭角にデザインしてしまいがちですが、ここはむしろパイプという素材の特性を優先させています。

座面、背もたれ、肘掛には、タンニンなめしの皮革が使われています。これらも見た目には直線的ですが、体重をかけたときには適度にしなり、人間の体をソフトに受け止めるようになっています。

このように、見た目には直線基調でクールなのですが、実際に座る人間のことも考えてデザインされているのがわかります。コンセプトと材料の特性、それに人間の体感とが、奇跡的に調和していると言えます。

ワシリーチェアは、現在でも15万円程度で手に入れることができます。この椅子がどのようなインテリアに合うのか考えるのも面白いと思います。

2006年09月24日

飛行機雲

ひらがな混じりで「ひこうき雲」と書けば、荒井由実の曲のタイトルになります。なぜか印象に残る曲です。『魔女の宅急便』の中で使われていたのは荒井由実の別の曲でしたが、ふと思い出したのは「ひこうき雲」でした。
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普段使う言葉は、テンプレートが既に用意されていて、それをアレンジすることでたいていの用は足りてしまいます。こんな場面ではこんな言葉とか。テンプレートがあれば意味のブレが少なくなるので、話すほうも気楽に話し始められるし、聞くほうも安心して聞くことができます。

でももしそんなテンプレートがない領域に遭遇したときにはどうしたらいいのでしょうか。日常はテンプレートの中に埋もれていますが、しかしそこで起こる出来事は、それぞれが前例のない一回きりのものであるはずです。それまで一度も経験したことのない感情を表現したいと思っても、参考になるようなテンプレートはありません。そんなとき、表現としての最初の一歩は、すべて比喩になるはずです。その比喩を解読するのは読者ですから、比喩が作者の意図通り伝わる保証はありません。

「ひこうき雲」というのはもちろん比喩です。自分ではどうにもならない感情を託した「ひこうき雲」という言葉は、読者にとって異質なだけでなく、作者自身にも異質なものでしょう。そこに一瞬の意味の空白が生まれ、次にその空白を埋めるようにいろいろなイメージが重ね合わされていきます。それらのイメージは、やがて何事もなかったかのようにひとつの意味に収束していくのですが、「ひこうき雲」という言葉が最初に持っていた異質性は、ときどき残像として二重写しにされることがあります。そうすると収束とは逆に意味は拡散し、またもとの何も表現されなかった時点に戻ります。結局迂回していただけかもしれませんが、迂回に意味がなかったわけではありません。むしろそうした迂回の積み重ねが共通の理解を深めていくのでしょう。ただ残像が消えずにときどき顔を出し、われわれを一回きりの体験へと連れ戻すこと、それが重要なのだと思います。

「建築は機械である」というル・コルビュジエの有名なフレーズは、機能主義を表わすものだと誤って解釈されていますが、実は何も意味していないのではないかと最近は思うようになりました。建築表現のテンプレートが無効になりつつあった20世紀初頭、時代に対する異質性を表現することだけに意味があったのではないかと思います。

2006年09月25日

一眼レフ デジタルカメラ

一眼レフデジカメを買う。僕らが使える普及品はかなり安くなってきました。でもお気に入りの銀塩一眼レフの24mmレンズが使えると聞いていたのに役に立たない。そう、訳あってこのレンズをデジカメで使うと36mmになってしまいます。これでは建築の室内写真は撮れない。

結局カメラ本体よりお高いタムロンの11~18mm広角レンズを買わなくてはいけない羽目になってしまいました。もともと少しの理屈を頭に入れ、道具で勝負のタイプ。新しい知識は何もありません。そうか、そうするとこの300mmレンズは450mmなるのか。持っているレンズの性能が上がったようで、ちょっと得した気分に一瞬なりましたが、そんなんいつ使う?ぶれるし。

で、最近竣工した建築物をパシャパシャ。ふんふん、フィルム代、気にしなくてこらええ。露出変えておんなじアングルでパシャパシャ。

銀塩一眼レフのシャッターは重かった。物理的にではありません。シャッターを押すまでにいろいろ考えて、勝負!って感じわかっていただけますよね。もったいながりなんでフィルムを無駄にしたくない。でも現像が上がってくるとだいたい落胆します。ファインダーからの景色はこんなんじゃなかった。

デジイチはいい。ぼくらレベルでは何の問題もありません。ただレンズは最高級品じゃないので中央が少し樽型になります。誰が決めたのか建築写真は多少歪んでも水平垂直がピシッと決まっていないと駄目らしい。フォトショップでなおせばいいか。(オリジナルの写真に手を加えると何か罪悪感が残ります。あおりレンズとやってることは同じと自分に言い聞かせます)

トリミングや写真の明るさ、色味もお店任せでなく、自分でできるのがやはりいいです。

長い間単なる記録写真は古いデジカメ、ちょっと綺麗に撮りたい時は銀塩一眼レフを使ってきました。でも今デジイチで撮った写真の方が美しく感じる僕は、決してデジタル人間ではないのですが・・・。

父が遺したカメラたち

中央はアーガスC3、右端は二眼レフで有名なローライフレックス スタンダード 古くて汚い。操作方法もわからない。右はキャノン モデルVTdlとミノルタ-35モデルⅡ

2006年09月27日

京都タワー

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京都駅ビルのガラス面に映る京都タワーです。駅前のバス停付近では、京都タワーに直接カメラを向けるのではなく、180度反対に向いて京都駅ビルに映った京都タワーを撮っている観光客をよく見かけます。

京都タワーも京都駅ビルも、建てられた当時は論議を呼びましたが、今ではそうした論議が忘れ去られたかのように、どちらも街になじんでいるかのように見えます。京都タワーは1964年に完成しています。設計者は分離派のメンバーだった山田守。私はまだ生れていなかったので、どんな議論が行なわれたのか詳しくは知りません。一方の京都駅ビルの完成は1997年、設計は原広司です。こちらは反対運動等がまだ記憶に新しいところです。とは言っても、私企業が自分の敷地に建てる建築物に、正面から反対する論理が反対運動の側に存在しないというのも確かです。実際駅ビルは賑わっていますし、それを観光都市=京都の活性化と捉えるならば、反対する根拠すらなくなってしまいます。

もちろん私は、京都駅ビルや京都タワーを擁護しようという気はありません。ただ批判するにしても、「景観」という根拠は弱すぎると思います。もっと別の論理が必要です。

2006年09月30日

バルセロナチェア(Barcelona chair)

インテリアショップに展示されていたバルセロナチェアには、実際に座ったことがあります。座面は大きく、ゆったりしています。厚みのあるクッションにスチールバーのフレームの適度なしなりが加わって、座り心地は快適です。スチールバーがX字型に交差する部分は、溶接でつないでいます。力はここに集中するので、本来構造的には少し無理があるのですが、それを逆手に取って緊張感のあるデザインとして成立させています。
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この椅子は、ミース・ファン・デル・ローエがバルセロナ万博(1929年)のパビリオンを設計した際に、同時にデザインしたものです。バルセロナ・パビリオンといえば、垂直と水平の線と面だけで構成された、抽象空間の代表のように言われています。そんな抽象空間の中に、有機的とまではいえないにしても、微妙なカーブを持った曲線脚の椅子が置かれたのですが、それほど違和感はありません。椅子は人間が座ってはじめて機能するものですし、建築よりはむしろ人間に近い存在です。ですから建築の中に置かれた椅子というのは、人間を間接的に表しているとも言えるのではないでしょうか。人の気配のない抽象空間であっても、そこに何か空間と人間との交接が込められているような気がします。

それともう一点、ミースは形態を極度に抽象したとしても、モノの素材感は消していません。パビリオンには数種類の大理石が使い分けられていますし、バルセロナチェアも、スチールと皮革という素材の持ち味を生かしています。形態を抽象化すればするほど、逆に素材感が浮かび上がってくるという構図のようでもあります。

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