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『魔女の宅急便』

ビデオを借りてきて見ました。時にはこういうほっとさせてくれる映画を見て、気持ちをリフレッシュすることも必要でしょう。

舞台になっている街は、ヨーロッパのいろいろな街の寄せ集めのようです。最初は南フランスだと思っていたのですが、ときどきドイツやオランダ風の建築が出てきます。

ジブリの作品で共通しているのは、背景が細かく描きこまれていることです。写真と間違えそうになる位です。それに対して、人物はアニメキャラですから、ときどきアンバランスに感じることもあります。リアルな画像とデフォルメされたキャラクターとの関係は、現実には逆ではないかと思うのです。つまり自分も含めた人物というのは、最も身近でリアルなはずで、遠く離れた背景は、身近でない分だけ想像で補わなくてはなりません。自分を中心として、自分から離れるほどリアルさの度合いが小さくなっていくというのが、日常的な感覚ではないかと思うのです。ジブリの作品は、そうした日常的な感覚を意図的に逆転させているのではないかと推測してみたくなります。

背景の描きこみかたも一様ではなく、細かい描写もあれば、すぐにアニメとわかるものもあります。これは意図的に描き方に差をつけているのでしょう。こうした描写の細かさの差は、いくつかの解釈が可能です。人物などはたとえアニメキャラでも、感情移入することでリアリティを獲得するのに対し、背景となる街や物は、別の方法でリアリティを与えなければなりません。背景を重点的に描写するというのは、作品全体にリアリティを持たせるためには有力な手段なのかもしれません。

しかしもう一歩踏み込んだ解釈もあり得るのではないかと思います。人物や身近な持ち物などが可変であるとすれば、街や自然は不変です。可変というのは、キャラクターを物語の中でどのように動かすかを作者が自由に設定できるということです。それに対して不変は、作者の力では動かすことができないものです。背景の細かな描写には、不変なものへの敬意が込められているのではないかと思うのです。他のジブリの作品でも、それは共通しています。たとえストーリーはSFであっても、自然の象徴として森などが必ず出てきます。

ここであらためて、リアルであるというのはどういうことなのかと考えさせられます。自分も含めた身近なものがリアルなのか、あるいは人間の意志ではどうにもならないもっと大きな存在こそがリアルなのかと。両者のリアルは、相反するのではなく、どこかで繋がっていて、互いに根拠を与え合っているのかもしれません。それにしてもリアルが主観なのか客観なのか、それは非常に大きなテーマだと思います。ジブリ作品の通奏低音は、実はそのあたりにあるのではないかと感じています。

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2006年09月18日 01:48に投稿されたエントリーのページです。

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