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2006年10月 アーカイブ

2006年10月03日

素足で暮らす 木の家

住宅設計では構造を木造にする場合が多い。予算的なことも含めて、住まいには最適だと感じます。
せっかく木で創るのなら昔の民家のように木組みも見せたい。設計も施工も数段むつかしくなりますが、そこは腕の見せどころ。

人が直接触れる床の素材は特に気を遣います。樹種、産地、材の厚さ、塗装の有無など住む人に合わせて決めていきます。

無垢の木の床にはスリッパや靴下は似合いません。どうぞ素足で暮らしてみてください。

木で創られた空間は人を優しく包み、温かさや涼しさを感じさせてくれます。
木は呼吸し時間の経過とともに変わり、そして短所と長所を併せ持っています。人と同じなのです。

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ニューハウス誌 ホームメイク木の家2、ムックNo.86
広陵町の家(奈良県北葛城郡)が掲載されています。

2006年10月04日

建築家はALCが嫌い?

ALC(Autoclaved Lightweight Concrete)を好きだという建築家に会ったことがありません。嫌いだと言う建築家ならたくさんいます。ソリッドでシャープな仕上りにならないからというのが、ALCを嫌う理由のようです。そんなわけで、建築家の設計する鉄骨造の建物は、たいてい押出成型セメント板か金属板で覆われることになります。

ALCがソリッドやシャープに見えないのは、気泡を含んでいるために密度が低いのと、パネルの角に面が取ってあるため、並べた時の目地が太くなるということが関係しているのでしょう。気泡を含んでいるのは、軽量化のためもありますが、断熱性を良くする意味もあります。ALCの熱伝導率は0.17で、木材(0.12~0.15程度)と比べてもそれほど遜色はありません。木造の場合には、柱と柱の間に断熱材を詰める必要がありますが(充填断熱)、ALCは単独でほぼ同程度の断熱性を確保できるわけです。

ALCは厚さ100mm、幅600mmのパネルで、長さは3.5m程度までつくることができます。取り付けはパネルの上と下を梁に固定するだけですから、途中に下地材は要りません。非常に合理的です。合理的ということは、コストも安いということです。それに材料のコスト自体が安いので、中低層の建物の外壁や、高層建築の間仕切りではよく使われます。ただし意匠性が必要な部分は、タイルやボードを貼って隠してしまうのですが。

普及率からいえば、現代を代表する材料と言っても良いと思います。建築は、それぞれの時代の材料でつくられてきました。石には石にふさわしいデザインがあり、コンクリートにはコンクリートの、木には木のデザインがあるわけです。そういう意味では、ALCにも材料の特性を生かしたデザインがあるはずです。ALCの不幸は、コンクリートの代用品としてしか見られてこなかったことです。本当は鉄筋コンクリート(RC)でつくりたかったのに、仕方なく鉄骨造で外壁をALCにし、RCに見せかけるためにタイルを貼るとか。こうした不当な扱いから材料を解放することも、建築家の使命と言えるのではないでしょうか。

仕上げのことを「化粧」ともいいます。もちろん化粧には化粧の意味がありますが、やはり「素顔」を大事にする必要があります。今ALCの素顔について考えているところです。

2006年10月05日

鉄骨ALC住宅プロトタイプ

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現代の最も普及した建築材料である鉄骨とALCパネルを使った住宅のプロジェクトです。

敷地の間口は10m程度を想定しています。鉄骨もALCも不燃材料なので、市街地(準防火地域)にも問題なく建てることが可能です。

1台分の駐車スペースを1階に設けます。玄関は2階で、左の階段で上ります。LDKは2階、寝室は1階で、寝室へはリビングから内部階段で降りていくようになっています。

建物の左側4分の1を占めるのは、視線と風を通す、幅1.5mの「隙間」です。階段を上がったところから、この隙間を横切って玄関に入ります。「隙間」を通して、奥にある庭を見ることができます。

屋根と2階の天井の間も「隙間」になっています。天井はALCパネルで、上から吊り下げています。屋根には日射の遮蔽と防水の機能を、天井には断熱の機能をそれぞれ割り当てています。

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2006年10月08日

『ゲド戦記』

10月1日の映画デーに見てきました。一律1,000円で見ることができます。子供の場合は逆に高くなります。

ネットで調べてみましたが、この映画の評価はあまり高くないようです。それに監督が宮崎駿の息子だということで、いろいろな憶測もあるようです。でもそうした外部要因に惑わされずに冷静に見てみれば、そんなに悪くはないです。もちろん脚本が散漫な印象はありますが、扱っているテーマはかなり深いし、少なくともテーマを観客に投げかけるという役割は十分担っています。

同じくジブリ作品の『紅の豚』と、テーマは共通していると思いました。テーマはふたつあります。

ひとつは「原罪」です。『紅の豚』では、戦友が皆死んでしまい自分だけが生き残ったことで、主人公は豚に姿が変わってしまうのですが、それは原罪を背負わされたと見ることができるでしょう。『ゲド戦記』の場合には、言うまでもなく、父殺しと放浪がそれに相当します。

もうひとつは「影」です。あまりうまく描かれてなかったのですが、『ゲド戦記』の主人公アレンを突き動かす「影」のことです。内面の分裂のことですが、『紅の豚』ではどこでそれが出てきたかというと、ポルコ(豚)はマルコ(豚に変わる前のパイロット)の「影」ではないかと私は思うのです。

アレンの「影」は、衝動や悪への意志といった人間のいわば否定的な面を表わしていますが、ポルコの場合は、自由や夢といった肯定的な面を表わしています。こうした違いはありますが、どちらにも共通するのは、影は本体なしでは何もできないということです。特にポルコの場合は、影そのものですから、それだけでは「ただの豚」(映画の中の台詞)です。逆に、影を持たない本体は生気に欠ける偽者でしかありません。人間は欠落や隙間を抱えていて、それを埋めるために影を必要とします。たとえ影が悪である場合でも。

『ゲド戦記』も『紅の豚』も、どちらも影をどう受け容れるかを巡る物語と言えるでしょう。『紅の豚』の場合は、影であるポルコが、マルコに戻るのでなく、ジーナやフィオをはじめとする登場人物すべてに受け容れられることで、世界が救済されるというファンタジーになっていますが、『ゲド戦記』の場合はちょっと難解です。しかし世界の救済がそんなに簡単に得られるはずもないわけで、そういう意味で『ゲド戦記』の結末は安易だと言われても仕方ないでしょう。

2006年10月13日

鉄骨ALC住宅プロトタイプ2

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周囲に余裕をもって建てられるような広い敷地があれば理想ですが、現実にはなかなかそうはいきません。特に市街地では、隣家との間にほとんど隙間がないような建て方をせざるを得ません。

無駄のないプランニングというのは褒め言葉ですが、でもまったく無駄がないものは息が詰まります。一見無駄に見えるものが、実は豊かさにつながっているのではないでしょうか。1部屋でも多く取れるように無理にプランニングするよりも、空間を使わない状態のままにしておく方が、住む人にとって意義があるのではないかと思います。

住宅同士が隙間なく並ぶような配置の場合、隙間をどこかで確保しないと風も光も通らず閉鎖的になります。そこで、住宅同士の間に隙間がないのなら、それぞれの住宅で隙間を確保しようというのがこのプロトタイプのコンセプトです。

象徴的に言えば、隙間とは、光と影のうちの影に相当します。影がなければ光も生きてこないように、影とは無意味なようでいて不可欠なものと言えるでしょう。人の住む部分の面積を多く確保しようとする効率優先のプランニングは、影を排除して光の部分だけで住宅を構成しようとするものです。住宅の設計から影が排除されてきた結果が、最近の住宅地の単調な街並みであるような気がしてなりません。

これからの住環境を考えるとき、必要なのは影を受け容れることだと思います。影とは何かをひとことで言い表すことはできませんが、あえて言えば「別の可能性」です。常識的な解決を超えるような可能性が、住宅の設計にはまだまだ眠っているはずです。

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2006年10月20日

ピアノ連弾版「モルダウ」

日曜日に京都文化博物館で、中台円と武田早智のピアノ・デュオ("The Mostly Piano Duo")のコンサートがありました。このデュオの演奏を聴きに行ったのは今回で2回目です。モーツァルト等のクラシックから、現代の作曲家の作品まで、プログラムには幅があります。でも先入観なしで聴いてみると、時代や地域を隔てた作曲家の作品に、不思議と似たような「つくり」や「響き」が感じられたりもします。

今回のプログラムで注目は、「モルダウ(チェコ語ではヴルタヴァ)」のピアノ連弾バージョンでした。「モルダウ」は、スメタナの6曲からなる連作交響詩「わが祖国」の中の1曲です。スメタナ自身が「わが祖国」をピアノ連弾に編曲したものを残しています。それを今回このデュオが取り上げたわけです。

交響詩ですから、オーケストラの表現力を前提に書かれているのですが、オーケストラ版を基準にして判断しようという気も起こらないくらい、この曲と今回の演奏は完成されていると思いました。あらためてピアノの表現力を思い知らされました。あえて比較するとすれば、緊張感の持続という点では、ピアノ版の方が上でしょう。音楽は予定調和ではなくて、演奏者にとっても聴衆にとっても、瞬間の積み重ねです。流れるような旋律となるためには、ひとつひとつの音の粒が際立っていなければなりません。部分がなければ全体が構成されることもありません。しかし通常記憶に残るのは全体としての旋律の方です。演奏者から10mも離れていない席で聴いていたせいもあるかもしれませんが、このコンサートでは、全体に統合される前の一瞬ごとの部分のリアリティーが、常に旋律に並行していました。

12月22日には、"The Mostly Piano Duo"による「わが祖国」の全曲演奏が京都文化博物館で行なわれます。

「スメタナ」は、ロシア語ではサワークリームの意味です。チェコ語も同じスラブ語の系列ですから、たぶん同じ意味になると思います。

2006年10月26日

野菜を作ろう! -家庭菜園のススメ-

土は、人と切っても切れない縁があります。

建築では壁や塀の材料として長い間のおつき合い。でも本当の土壁は、お寺さんか、よほどの数寄屋建築でないとお目にかかれなくなったのは寂しいことです。

野菜も土から収穫します。ただ作ることが目的であれば、最近では土もお日さんも要らないらしい。そうではなくて、土があるとそこに小さな自然が生まれる、それが面白いのです。
草が生え、花が咲き、虫が寄り、実が成って、鳥がついばみ、葉が落ちて土に還るというサイクル。

虫が苦手な人も多いし、土のままだと掃除もたいへん、雑草だってすぐ生える。だから人は自然のいいとこ取りをして、綺麗で便利な家を作り、地面を舗装し、都市を築いてきました。
ところがシックハウスやヒートアイランド、集中豪雨など、その歪みは周知の事実。

自然をそのまま受け入れ、不便を自ら選択して、体を動かしてみてはいかがでしょう。
家の前の地面はコンクリートですか?だったら少しだけでも土に戻して野菜や木、草花を植えてみませんか。 スローライフの始まりです。子供が子供らしく育つことを願って・・・。

 

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左はダイコン、中央はオクラ、右はハクサイ。

ダイコンは簡単。オクラは放っておくとすごく大きくなる、うちではオバケオクラと呼んでいる。さらに放っておくと来年用の種が獲れる。ハクサイは難しい、葉が広がってなかなかカタマリになってくれない。

2006年10月30日

グループ名の由来

A.Y.A.の名前の由来ですが、別に難しい理屈はなくて、メンバーの頭文字を並べただけです。有名(なのかな)アイドルと同じ読みになるのはたまたまです。

設計事務所の名称が、創立者の頭文字になっている例としては、SOM(Skidmore,Owings & Merrill)があります。しかしSOMは会社組織です。設計事務所が会社組織になるのは、規模が大きくなれば仕方ないにしても、建築家の本来のあり方からすれば、一つの会社組織に複数の建築家が所属するのはおかしいと思います。建築家は独立した判断を下せるというのが大事なわけですから。

A.Y.A.は、独立した建築家がコラボレート(協働)するというスタイルをとっています。ユニットという呼び方もできるかもしれませんが、それよりももう少しメンバーの独立性が高いと私は思っています。

A.Y.A.に近い組織形態を探すとすれば、イタリアの建築家グループBBPRでしょうか。BBPRは、Gianluigi Banfi、Lodovico di barbiano、Enrico Peressutti、Ernesto N Rogersの頭文字を並べたものです。

BBPRの代表作はトーレ・ヴェラスカ(1958年)ですが、一見中世風のデザインは、モダニズムからの逸脱だという非難を受けました。しかし、BBPRは単純な歴史主義の建築家グループではありません。基盤となるのはモダニズムです。活動を開始したのは1930年代ですが、戦前戦後を通じて一貫した論理で行動しています。イタリアの場合は、モダニズムがファシズム体制に組み込まれていくという特異性があるのですが、BBPRは最後まで体制への協力を拒否しています。つまり彼らにとってのモダニズムとは、デザイン上の流行などではなく、倫理に根ざしたものだったと言えるでしょう。

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