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2006年12月 アーカイブ

2006年12月02日

クリスマス・イルミネーション



街にクリスマスのイルミネーションが輝く時期になりました。今年もあと1ヶ月を残すだけです。

クリスマスとは関係のないものもありますが、イルミネーションやライトアップの画像を集めてみました。

2006年12月10日

準防火地域でも真壁造りが可能に

市街地に建築する場合には、防火の制限がかかってきます。繁華街は一番制限の厳しい防火地域になっていることが多く、その周辺の住宅などが密集して建つ地域は、たいてい次に制限の厳しい準防火地域になっています。

防火地域では、延べ面積が100平方メートルを超える建物は耐火建築物にしなければならないので、木造で建てることはまず無理です。準防火地域では、条件はあるものの、木造の住宅の建築は可能です。ただしその条件というのが、「外壁・軒裏の延焼のおそれのある部分を防火構造にする」というものでした。この条件を満たすために、外壁や軒裏をモルタル塗り等で仕上げなければなりませんでした。柱や軒裏の垂木が見える木造の意匠が、これではだいなしになります。

京都の中心地などでは、古い木造住宅が密集して建っています。いわゆる町家です。これらを建て替えたり、改修したりする際に、防火制限があるために伝統的な構法では建てられないというのが問題になっていました。これが町家が壊され、街並みが破壊されていく要因のひとつでもあったのです。

最近になって(といってももう2年前になりますが)、柱や軒裏を表に出す構法でも、防火の条件を満たすことが可能になりました。法的な根拠は、2004年の国土交通省告示です。壁が塗り壁で、厚みが40mm以上であれば、柱を露出すること(真壁造り)が可能です。また垂木同士の隙間を、桁と野地板の間で埋めれば、垂木を露出すること(化粧垂木)が可能です。高価な材料を使う必要がないので、防火構造にするためのコストアップがほとんどありません。

これまでの防火に対する考え方は、一律に木は燃えやすいものだという前提に立っていました。しかしある程度の厚みがあれば、なかなか芯までは火は到達しません。木の燃えにくさが実験で検証されるようになり、それが法律にも適用されるようになったのです。

2006年12月16日

螺旋状の時間軸

時間の流れというのはもちろん一方向ですが、その軸が直線ではなく、螺旋を描いているというイメージが最近になってわかりかけてきました。

ひとつの線に沿って不可逆的に時間は流れているのですが、それは一方向に発散してしまうのではなくて、大きく円を描くようにして元の位置の近くに戻ってきます。しかしまったく同じ位置ではなくて、時間が経過した分だけ座標がずれます。この軌跡が螺旋になります。
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ギリシャ建築を起源とすると、建築デザインは、ロマネスクを経てゴシックへと発展します。しかしゴシックの後にはまったく新規なデザインが続くのではなく、ギリシャ建築やローマ建築を模範とするルネサンスへと回帰します。西洋の建築の歴史は、大きくは古典主義(ギリシャ・ローマ)とロマン主義(ゴシック)の繰り返しです。比例関係に美を求める古典主義に飽きると、もっと精神的なものを求めて形態のデフォルメが行なわれます。そのデフォルメにも飽きると、また元のシンプルな形態へと戻っていくわけです。
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螺旋を真上から見ると、時間軸を消し去って、それぞれの時代のデザインを同一平面上で比較することができます。ある時代のデザインを取り入れたり、デザインを混ぜ合わせたり、この平面がパレットであるかのように自由にデザインを操作できるというアイデアが生れてきます。テーマパークはこのアイデアの上に成り立っていますし、最近の景観規制もこのアイデアの延長線上にあると思います。

しかしどんなに精巧に復元したとしても、テーマパークは本物ではないし、過去のモチーフを取り入れた景観も奥行きを獲得することはないでしょう。デザインが何十年かあるいは何百年かの周期で円環を描いているように見えても、まったく同じ地点に戻ってくることはありません。平面上は同じ点に見えても、立体的には異なる点です。そのずれにこそ建築の建築たる秘密があるはずです。

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中でマルクスが、「歴史的な事件は2度起こる。最初は悲劇として、2回目は茶番として」という意味のことを書いています。ナポレオン3世はナポレオン1世の茶番であるという趣旨です。同じような政治的な状況は、歴史には何度か反復して現れます。もちろん歴史に学ぶことは必要ですが、過去をすべて無批判に受け容れるだけならば、結果が茶番となることは目に見えています。ましてナポレオン3世の場合は、叔父であるナポレオン1世の栄光を纏うことで自分の権威を高めようという意図ですから、幕が開く前から既に茶番劇なのです。

同じことは建築にも言えて、過去の建築や街並みを寸分違わず再現したとしても、そしてそれが一見豊かで華やかであったとしても、どこかで空虚さを漂わせるのは仕方のないことなのです。人間にとって必要なのは、わかりやすい意味だけではありません。むしろ大事なのは、意味が確定するのを妨げる「ずれ」の部分です。

本来閉じるはずのない螺旋状の時間軸を、無理やり閉ざして円環にすることで現代の学問は成り立っています。経済学がそうですし、言語学がそうです。同じ現象が反復して起こらなければ、科学の対象にならないからです。「科学的な認識=円環が閉じること」と言ってもいいかもしれません。そうした円環を閉ざすことへの欲求は根強くあります。しかし他方で、円環を再び開いていく方向性がないならば、科学は空虚になるだけでしょう。

建築においても、螺旋状の時間軸を、閉ざすことなくそのままの形で受け容れるような理論の構成が目指されなければならないでしょう。

2006年12月23日

業務スーパー

gyoumusuper.jpg

山科にある「業務スーパー」という名前のスーパーです。飲食店向けの業務用食品が主ですが、野菜等の一般の食品も扱っていますし、もちろん一般の人も買うことができます。パスタ(400gで88円)やトマトの缶詰(400gで78円)はたいていここで買います。

建物を見ればすぐわかるように、以前はユニクロでした。切妻屋根とレンガ風のファサードは、一時期ユニクロが採用していたデザインです。ユニクロがRACTO(山科駅前を再開発したビル)に移転した後、業務スーパーが入りました。買い取った建物にあまり手を加えずに、そのまま転用するのが最近のトレンドです。ですから外観は、看板以外は以前とほとんど同じです。建築ストックの有効利用という点では良いことです。ただし他方では、建築が企業イメージを表現する媒体ではなくなってきているとも言えるわけですが。

単体のデザイン以外で特徴的なのは、道路に対する建物の建ち方です。道路側に駐車場を設け、建物を奥に配置しています。郊外の道路沿いではよく見られる形式(ロードサイド型)です。場所が郊外だったらこれで別に問題はないのですが、この場所にこの形式というのは違和感があります。この建物が面している手前の道路は三条通りです。現在は五条通りが国道一号線ですが、昔はこの三条通りが一号線でした。つまり起源を東海道までさかのぼる街道で、周囲は旧市街なのです。また10年ほど前は、路面電車(京津線)が三条通りを通っていました。両側の建物はほとんど建て替えられてしまっても、道路に建物をいっぱいまで寄せた建て方によって、なんとなく昔の街道の面影を保っていました。そんな面影が最近は薄れつつあります。車に乗る人にとっては、駐車場が広い店舗の方が入りやすいのですが、ロードサイド型の店舗は街並みにとってはかなり破壊的です。

街並みというのは、建物のデザインの統一性というよりは、敷地が面する道路と建物との関係なのだと私は思います。この関係には、道路の幅と建物の高さとの関係も含まれます。道路の幅からおのずと決まってくる周囲の建物の高さや配置というのがあって、それが美的な規範として引き継がれていくべきものなのでしょう。

2006年12月26日

『バットマン』

『バットマン』は、ティム・バートンの監督による1989年の映画です。その後監督を変えながら、シリーズでつくられることになりますが、『バットマン』と言えば、やはりバートンがイメージを決定付けたと思います。これは単純なヒーロー映画ではありません。かといって、普通の人間であることと超人的なヒーローであることの相克に悩むという人間ドラマでもありません。彼の最新作『チャーリーとチョコレート工場』にも共通しますが、バートンのある種の世界観の投影です。そしてそれは空間の感覚とも関連していると思います。

物事には表と裏、つまり二面性があります。ある面では正義であるのに、別の面からは悪である場合とかです。しかし正義だけを取り出す、あるいは悪だけを取り出すのは不可能で、結局同じものがまったく別の2通りに見えてしまうということです。正義と悪が紙一重と言うのとは違います。正義を表の面、悪を裏の面とするならば、両者を分けている紙一重の隙間などというものはなくて、厚みのない面同士が重なっているに過ぎないわけです。『チャーリーとチョコレート工場』では、ユートピアは同時に悪夢の世界でもあります。問題は誰が評価を下すかです。両者を隔てる紙一重の隙間に理性が入り込むことができれば、両者を公平に評価できます。しかしそんな隙間などないわけですから、どちらか一方の側からしか物事を見ることができません。チョコレート工場の中に住んでいる人には、当然片方の面しか見えないわけです。

ゴッサム・シティーは、歴史的・文化的な都市であると同時に、犯罪がはびこる都市でもあります。この二つの側面は、独立して取り出すことが可能に見えて、実は分けられないものかも知れません。繁栄が貧困を伴うものならば、そして貧困が犯罪を生み出しているのならば、ジョーカーを退治したところで、次々と新しい敵が登場するのは不可避です(それが『バットマン』がシリーズとして続いていく理由です)。ということは、結局ここでも、二つの側面を同時に見ることができる視点が不可能であるために、両側面がそれぞれ代理人を立てて戦うことになるわけです。

ブルース・ウェインが、バットマンとしての自分と本来の自分との葛藤を抱えるのは、本来あり得ないはずの2つの側面の隙間に入り込んでしまったからだとは言えるでしょう。

『バットマン』『チャーリーとチョコレート工場』は、ゴシック・リバイバルに未来派を接木したような建築のデザインが共通します。バットマンは、高層ビルの間を縫って、空から犯罪現場に舞い降り、そしてまた空に上るようにして去っていきます。水平移動ではなく垂直の移動が印象的に使われています。『チャーリーとチョコレート工場』の最初の画面は、高い煙突の先から、カメラがチョコレート工場の内部に入っていくような写しかたになっています。工場の内部が外部とは違う世界であることが、垂直の移動によって示されるわけです。ですからどちらの映画も、より垂直性を際立たせるために、ゴシック様式を必要としたのだと思います。どちらもそこに別世界を挿入するということであり、あらかじめ観客に物事の両側面を見るための特権的な位置を与えているともいえます。

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