『バットマン』は、ティム・バートンの監督による1989年の映画です。その後監督を変えながら、シリーズでつくられることになりますが、『バットマン』と言えば、やはりバートンがイメージを決定付けたと思います。これは単純なヒーロー映画ではありません。かといって、普通の人間であることと超人的なヒーローであることの相克に悩むという人間ドラマでもありません。彼の最新作『チャーリーとチョコレート工場』にも共通しますが、バートンのある種の世界観の投影です。そしてそれは空間の感覚とも関連していると思います。
物事には表と裏、つまり二面性があります。ある面では正義であるのに、別の面からは悪である場合とかです。しかし正義だけを取り出す、あるいは悪だけを取り出すのは不可能で、結局同じものがまったく別の2通りに見えてしまうということです。正義と悪が紙一重と言うのとは違います。正義を表の面、悪を裏の面とするならば、両者を分けている紙一重の隙間などというものはなくて、厚みのない面同士が重なっているに過ぎないわけです。『チャーリーとチョコレート工場』では、ユートピアは同時に悪夢の世界でもあります。問題は誰が評価を下すかです。両者を隔てる紙一重の隙間に理性が入り込むことができれば、両者を公平に評価できます。しかしそんな隙間などないわけですから、どちらか一方の側からしか物事を見ることができません。チョコレート工場の中に住んでいる人には、当然片方の面しか見えないわけです。
ゴッサム・シティーは、歴史的・文化的な都市であると同時に、犯罪がはびこる都市でもあります。この二つの側面は、独立して取り出すことが可能に見えて、実は分けられないものかも知れません。繁栄が貧困を伴うものならば、そして貧困が犯罪を生み出しているのならば、ジョーカーを退治したところで、次々と新しい敵が登場するのは不可避です(それが『バットマン』がシリーズとして続いていく理由です)。ということは、結局ここでも、二つの側面を同時に見ることができる視点が不可能であるために、両側面がそれぞれ代理人を立てて戦うことになるわけです。
ブルース・ウェインが、バットマンとしての自分と本来の自分との葛藤を抱えるのは、本来あり得ないはずの2つの側面の隙間に入り込んでしまったからだとは言えるでしょう。
『バットマン』と『チャーリーとチョコレート工場』は、ゴシック・リバイバルに未来派を接木したような建築のデザインが共通します。バットマンは、高層ビルの間を縫って、空から犯罪現場に舞い降り、そしてまた空に上るようにして去っていきます。水平移動ではなく垂直の移動が印象的に使われています。『チャーリーとチョコレート工場』の最初の画面は、高い煙突の先から、カメラがチョコレート工場の内部に入っていくような写しかたになっています。工場の内部が外部とは違う世界であることが、垂直の移動によって示されるわけです。ですからどちらの映画も、より垂直性を際立たせるために、ゴシック様式を必要としたのだと思います。どちらもそこに別世界を挿入するということであり、あらかじめ観客に物事の両側面を見るための特権的な位置を与えているともいえます。
