止まった時間
年末年始の時間の流れは、明らかに普段とは違います。止まっているようにも感じるし、過ぎてみれば非常に短かったようにも思えてきます。社会的な機能の多くが、この期間だけは休止していることも関係しているのかも知れません。時間が物理的な尺度としてあるのではなくて、社会の機能が時間を進ませていくと考えることもできるでしょう。客観的な尺度である時間を主体的にやりくりしているつもりでいても、実はその時間は社会の中で生み出された時間に過ぎないのではないでしょうか。社会の中での役割から解き放たれた時、時間の進み方も違ったものになってきます。
この時期には、ひとつひとつの物事に対応していたはずの時間が、順序や対応関係を失っていくように感じられます。そして時間の順序が喪失すると同時に、物事の立体感もまた失われていきます。テレビなどでその年を振り返る企画が多く放送されることも関係しているかも知れません。物事自体は、喜びであったり怒りであったり、いろいろな感情を伴うものでありながら、時間を剥ぎ取られて同じ平面に並べられると、不思議と冷静に眺めることが可能になります。本当は怒りや悔しさなしでは見ることの出来ない場面や事件は、ある意味他人事であるが故に冷静に観察できるものになります。同時に生き生きとした喜びの感情も、まるで他人事になったかのように薄められてしまうのですが。物事が立体感を失って等価に並び、われわれは傍観者としてその並びを外側から見る視点を獲得するのです。
われわれの住む世界は、われわれに直接利害をもたらす流動した世界でありながら、この時期だけは善悪を超越したひとつの像を結んでいると言えるでしょう。それが体制によってつくられた虚像なのか、それとも体制さえ超える何者かによってつくられているものなのか、それはわからないにしても。いったん傍観者の地位に逃れたわれわれには、しょせん利害は他人事と言えるわけで、そもそも善悪を判断する必要もなくなるわけです。
日常生活が戻ってくれば、止まっていた時間が再び動き出し、物事はまた以前の立体感を取り戻すでしょう。その時、止まっていた時間の記憶あるいは残像は、われわれの日常に何かもたらすのでしょうか。
ひとつ興味があるのは、建築におけるニュートラルな表現というのが、おそらくこの止まった時間と関連しているということです。表現をニュートラルに近づけることで目指されているのは、その時代ごとの枠組みを超えた永遠性なのだと思います。その時代に属する者によっては判断されえない価値、つまり善悪を超えたもの。抽象とか純粋図形とか、最近では薄い皮膜による表現とか、そこには単純さの中にすべてを映し出すことが意図されているはずです。時間との連関を断ち切ることで、どんな配列でもそこには可能になります。ただし、それは機能を断ち切ることと裏腹な関係にあるわけですが。つまり機能主義を装った抽象表現は、そもそも形容矛盾だということです。
