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スルギドゥン来日コンサート

すべてのものは、形式として完成する寸前と、いったん完成した形式が崩れていく瞬間が美しいのだと思います。形式としての完成を目指している間は、まだ見ぬその形式は永遠の理想です。しかし完成してしまえば、形式は退屈な足かせにすぎなくなります。そこで今度はそれまで歩んできた道を逆にたどり、形式化される前の混沌を追い求めるようになります。それが形式の崩れる第一歩です。

近代建築においては、様々な流派の入り乱れる葛藤の後、均質空間という形式が完成します。そして第二次大戦を経て、均質空間は世界を覆いつくしていきますが、それは一方で硬直化のはじまりでもありました。その反動がポストモダンとして現れます。近代建築がもっとも輝いたのは、均質空間として定式化される前のほんの一瞬、そしてポストモダンが輝いたのは、均質空間に風穴が開けられたほんの一瞬でした。どちらにしても長続きしたとは言えません。むしろ永続することは原理的に不可能だと言えるでしょう。なぜなら、完成形としての近代建築(インターナショナルスタイル)という本体がまずあって、その前後を短期間だけ占めるという位置づけこそが、初期の近代建築やポストモダンを輝かしく見せていたのですから。ポストモダンを経た現在は、本体自体が消滅してしまい、そのためにそれへの批判すら根拠を失ってしまった時代と言えるでしょう。

26日に大阪国際交流センターで開催されたスルギドゥン(韓国国楽室内楽団)のコンサートに行ってきました。朝鮮の民族音楽、そして民族楽器によって演奏される新しくつくられた曲は、形式がたどる歴史を象徴していたように思います。2部構成のうちの第1部は、伝統音楽です。響きには大陸的なものが感じられます。独特なのはリズムで、どんな拍子にも合わない、いわば均質化される前のリズムです。流れる時間がそこでは違っていたのかもしれません。第2部になると、リズムは既に均質化されています。響きは伝統音楽から引き継いでいますが、リズムは西洋音楽と変わりません。時間の流れに共通の尺度ができたかのようです。基本となるリズムが通底してしまえば、他のジャンルとのフュージョンも可能になります。実際このコンサートではジャズ・テナーサックス奏者と共演する曲目がありました。

しかし形式の完成は、呪縛でもあります。形式が完成された地点から見た伝統は、もともとの伝統とは別物になっているのではないかと思うのです。それは戦後の教育を受けた世代が、日本の伝統について考える場合の問題と共通します。小節が繰り返されることによる均質な流れとは別に、そうした記譜法に縛られない時間の流れが伝統音楽にはあったはずです。しかし、そう考えるわれわれ自身が、すでに均質な流れの中にいてそう思っているに過ぎない、というのがパラドクスなのですが。

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2007年01月28日 00:30に投稿されたエントリーのページです。

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