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2007年02月 アーカイブ

2007年02月04日

需要と供給(構造偽造の背景)

昨年亡くなった経済学者のミルトン・フリードマンだったら、日本の構造計算書偽造の問題や、カラオケ店の火災について何と言うでしょうか。

フリードマンの思想的立場は、新自由主義です。企業が利潤を追求し、消費者が自分の満足を得るために行動すれば、市場を通じて最適な分配が実現されるという考え方です。政府による所得の再分配や景気浮揚策は、無駄なばかりか有害だと主張します。第2次大戦後の各国の経済政策はケインズ派が握っていましたが、70年代に世界的に経済が失速すると、ケインズ経済学を否定する新自由主義経済学が台頭しました。フリードマンはそのシンボル的存在です。

特にアメリカやイギリス、そして日本では、新自由主義的な政策が次々と実行されていきます。各種の規制緩和は、そうした政策の一環です。日本では、建築確認は行政の独占的な業務でしたが、90年代にはサービス向上の名の下に、民間委託が可能になりました。構造計算書の偽造を見落としたのは、民間の確認検査機関です。ただこれについては、たとえ行政が建築確認をしていたとしても、偽造の発見は困難だったという意見もあります。しかしそれは仮定の話であって、建築確認が民間委託されて以降に、こうした偽造が行なわれるようになったという事実は変わりません。

需要が供給をつくるというのが、新自由主義の考え方です。需要を満たすためのサービスを提供するのは、経済的には正義ですから、需要と供給の間に倫理が入り込む余地はありません。偽造の見落としが意図的であったかどうかという問題ではなくて、それが需要に見合った供給だったということです。経済的にはこれで完結しています。

偽造がなぜ行なわれたのかも、同じ論理で説明できます。それは偽造に対する需要があるからです。もちろん偽造を行なった建築士は倫理的には許しがたいのですが、彼らとて、需要があるからこそ、偽造という供給を行なったわけです。偽造せよという明示的な指示の問題ではなく、発注者と設計者とが経済的合意に達したからこそ、契約が行なわれ、成果品が提出されているのです。アパホテルの発注者は、「建築士を信用しすぎた」という発言をしていますが、まともな経営者ならば、契約相手のリスクは既に折り込み済みのはずです。

しかし構造計算のような専門的な業務について、専門家でない発注者がチェックするのは不可能ではないかという反論は、当然出てきます。専門性が必要で、かつ公共的な業務は、通常国家資格になっていて業務の独占が認められています。建築士制度もそうです。その上に、建築確認という行政による審査制度が設けられています。これらは市場経済の外にあります。市場の外にあるので、確かに効率的ではないかもしれません。しかし、こうした制度によって市場経済に制限を加えることで、バランスが保たれていたと言えるでしょう。ですから、偽造事件関係者のように、規制緩和の恩恵を利用しながら、最後は制度にすがるというのは、虫が良すぎるというものです。

フリードマン流に言えば、偽造をなくすのは簡単です。建築確認を受けるかどうかを建築主が選べるようにすればよいのです。「選択の自由」ということです。設計者に建築士の有資格者を選ぶかどうかも自由です。そうすれば、無資格者が設計し、建築確認を受けないまま建てられた建築物でも、建っている限りは違反建築ではありません。その代わり、構造の安全性等のチェックは、すべて建築主の自己責任で行なわなければなりません。それと不特定多数が使用する建物の場合には、建築確認を受けていないことを表示して、消費者がその建物を使用するかどうかを判断できるようにしなければなりません。そうすれば、消費者の判断、つまり市場原理によって、その建物の経済的な安全性が決まることになるでしょう。

もっとも私は新自由主義者ではないので、もし建築主の立場になることがあったら、建築確認を受けることを選択しますが。ただし建築確認も、民間委託を止めて、責任の所在をはっきりさせることができる制度にする必要があります。

2007年02月11日

内部と外部



囲うという操作は、空間を内部と外部に分割します。囲われた部分が内部で、囲われなかった部分が外部です。その場合、完全に隙間なく囲う必要はありません。たとえば逆L字型のパネルを傘のようにさし掛ければ、その下は内部の領域になります。

一枚のパネルは、それ自体では裏も表もありません。しかし、囲うという機能を与えられると、いつのまにかそれは裏と表の二面性を持つようになります。外部に面するのが表で、内部に面するのが裏です。

ガラスには、内部と外部の二分法を無効化するような魔力があると、一時期信じられていたかも知れません。しかし実際には、ガラスは内部と外部の二分法をむしろ強化しただけでした。

内部と外部の二分法は、人間の身体の延長として建築が機能している状況と対応しています。つまり、内部を守るシェルターであり、同時に外部に対する自己表現でもあるわけです。多くの場合、われわれはそうした枠組みで建築を考えざるを得ません。しかしそうした枠組み自体に、最近はうんざりしています。建築家はもっと別のことを考えるべきではないかと思います。

そこで、パネルを使いながら、表と裏の区別を持たないような構成、内部と外部を切り分けない構成というものを考えてみました。といってもメビウスの帯を応用しただけですが。

鉄骨ALC住宅プロトタイプも、こうした問題意識の延長線上にあります。ALCパネルの表と裏の関係が逆転するように組立てています。

2007年02月21日

言葉と意味

  「わたしがことばを使うときには、ことばはわたしの選んだ通りの意味に
  なるのである――それ以上でも以下でもない」ハンプティ・ダンプティは
  つっけんどんに言いました。

  「問題は、ことばにそんないろいろちがった意味を持たせられるかって
  ことよ」とアリス。
                     (ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

ある本を読んでいて、『鏡の国のアリス』の中のこの一節が引用されているのを見つけました。ふと思い出したのは、最近問題になっている厚生労働大臣の発言です。

  「労働力以外に売るものを持たない労働者」(マルクス)
  「工場労働者は時間だけが売り物」(柳沢)

どう見ても、言っていることは同じです。問題は、同じことを言っていても、社会的な意味はまったく正反対だということです。実はそこにこの問題の本質があるのに、単なる言葉尻を捉えた糾弾に終始しているのでは、逆に本質から目をそらすことになるだけです。マルクスの学説通り、労働力が労働者の持つ商品であるならば、大臣の発言はまったく何の問題もないことになります。ですからここでは、この学説の真偽を問わないこととし、発言の内容が引き起こす効果だけに着目することにします。

マルクスの発言は、社会に存在する不平等の告発であり、この不平等の是正のために労働者に立ち上がることを呼びかけています。それに対して柳沢発言は、労働者を監督する側の都合を表現したものです。この発言に反発するのは当然だとしても、それが「不適切な表現」の是正を求めることにとどまるならば、大きな枠組み自体は何も変わりません。そしてその枠組みが、こうした発言を再生産していくだけです。

少子化問題についての柳沢発言も、実は本質を突いています。この人はマルクス経済学に詳しいのではないかと、私はにらんでいます。社会が存続していくためには、生産は一回きりではなくて継続して行なわれなければなりません。社会的な再生産ということです。生産には、機械設備と労働力の両方が必要です。機械設備は工業製品として生産されますが、労働力は工場では再生産できません。労働力の再生産は、家庭によって行なわれます。工業社会化しても、結局労働力の再生産は工場では不可能だという点に、マルクスは資本主義の矛盾を見ています。

ところで少子化問題ですが、近代経済学の立場からすれば、そうした問題自体が存在しないはずなのです。生産が、機械設備と労働力によって行なわれるというのは近代経済学も同じですが、少子化で労働力の供給が減り、労働力の値段が上がれば、経営者は生産の一層の機械化を進めるはずです。ですから全体としては、機械設備と労働力の比率が変わるだけで、生産量としてそれほど変化はないはずです。

地球温暖化問題もそうですし、少子化問題もそうですが、言葉だけが独り歩きしている感があります。そして少子化問題を真剣に考えるあまり、政府の大臣までもが、マルクス経済学の立場にいつのまにか立っているというのは、興味深いことです。というか、国民には近代経済学を正統な経済学だと教えながら、自分達はマルクス経済学を政策の指針にしているということかもしれません。

2007年02月23日

東寺の住まい(京都市南区)が完成しました

京都 東寺の近くに建つ、延べ面積126.20㎡(38.18坪) 木造2階建て 一部鉄骨造の都市型住宅です。

建て主さんも建築のプロですので、細かな部分まで配慮の行き届いた、設計・施工が実現できました。
敷地内に母屋と借家が建て込んでおり、採光・通風に有利な2階に、主な生活スペースであるLDKを配置してあります。
玄関建具にはベイヒバの無垢板を張っています。寸法は、幅1.0m×高さ2.6m gaikanhp.JPG

リビングルームの床はヒノキの無垢板で、床暖房が仕込んであります。
主照明は間接照明だけですが、充分明るく、落ち着いた雰囲気です。
デッキテラスを併設し、光の方向に開かれた勾配天井なので、リビングルームはとても開放感があります。 livinghp.JPG

ダイニングの床はタイル張り。こちらも床暖房です。
ロールスクリーンに照明光を反射させると、昼間とは違う、夜の表情を味わえます。 dininghp.JPG

和室の壁・天井仕上げは布クロス張り(一部和紙張り)。
1.8m幅の地窓障子を開けると、坪庭が見えます。こちらも主照明は間接照明です。 washituhp.JPG kakuheyahp.JPG

2007年02月25日

『SAYURI』

ロブ・マーシャル監督の2005年の映画です。製作は、スティーブン・スピルバーグ(製作者の方が監督よりも有名なようです)。DVDを借りてきて見ました。

描かれた時代背景は、江戸時代や明治の頃かと思いきや、意外と新しくて第二次世界大戦の前後です。といっても、見方によっては十分古い時代と言えるかもしれません。私はもちろんその時代に生きていたわけではないですし、もしその時代を自分の目で見たという人でも、「芸者」の世界まではおそらく見てはいないでしょう。

時間的に近いか遠いかは、その背景の時代考証に影響します。近い過去ならば、目撃者がたくさんいますから、客観的な再現も可能でしょう。しかし、遠くなるに従って、時代の目撃者はいなくなり、資料も少なくなり、足りない部分を想像力で補う必要が出てきます。第二次世界大戦の前後というのは、時代考証の上では、そうした微妙な位置にあると言えるかもしれません。

この映画を見て、背景のセットや俳優の台詞には多少違和感を覚えます。しかしそれはこの映画が事実と違うが故の違和感ではなく、これまでに刷り込まれてきたイメージとの落差の故です。もちろんこれまで刷り込まれてきたイメージが客観的な事実であることの保証はありません。ということは、判断の基準になるものを私は持っていないということです。それは私だけでなく、多くの人にとっても同じはずです。特に台詞を介した心理描写については、それがその時代に実際にありえた心理状態なのかどうか知る由はありません。

結局この物語は、極論すれば、歴史というよりは、現時点のわれわれの心情を投影した虚像だと言えるでしょう。登場する「芸者」は、こうあって欲しいと現代人が求める「芸者」のイメージです。物語ですから、人物のキャラクターは自由に創造することが可能です。歴史が現代を照射するのではなく、現代が単に歴史の時間帯に投影されているに過ぎません。一種の自家撞着です。

もしこの映画を、異国趣味の集大成ではなく、歴史的事実による現代への問題提起として読みたいのならば、見えないコンテクストを仮定してみる必要があります。そのコンテクストとは、ピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』(1921年)です。

『作者を探す六人の登場人物』は、劇の中に劇をはめ込むという実験的な作品です。6人からなる家族が、自分達に降りかかった事件(というより彼らの生活そのものですが)を劇として表現したいと考え、演出家に演出を依頼します。その劇の練習風景が劇になっているという構図です。その家族は、劇中の登場人物であると同時に、題材そのものでもあります。その意味するところは、題材が劇として再現されることの不可能性です。題材がそれ自体である限り、それを再現することは不可能であり、もし劇として再現すれば、題材のもつオリジナリティーは消え去るということです。

『SAYURI』は、ある芸者の回想という形式を取ります。しかし彼女はすでに製作者の分身でしかありません。本当の「彼女」は、作者を探しながら闇の中をさまよっているに違いありません。「芸者」とは、仮面です。彼女が仮面を被らなければならない理由は、映画の中で語られている内容とはまったく無関係に、表象あるいは表現というものが持つ宿命です。この映画に、他のハリウッド映画にない深みがあるとすれば、それは「芸者」のミステリアスなあり方と表象の不可能性とが、たまたま一致した結果に過ぎません。

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