ロブ・マーシャル監督の2005年の映画です。製作は、スティーブン・スピルバーグ(製作者の方が監督よりも有名なようです)。DVDを借りてきて見ました。
描かれた時代背景は、江戸時代や明治の頃かと思いきや、意外と新しくて第二次世界大戦の前後です。といっても、見方によっては十分古い時代と言えるかもしれません。私はもちろんその時代に生きていたわけではないですし、もしその時代を自分の目で見たという人でも、「芸者」の世界まではおそらく見てはいないでしょう。
時間的に近いか遠いかは、その背景の時代考証に影響します。近い過去ならば、目撃者がたくさんいますから、客観的な再現も可能でしょう。しかし、遠くなるに従って、時代の目撃者はいなくなり、資料も少なくなり、足りない部分を想像力で補う必要が出てきます。第二次世界大戦の前後というのは、時代考証の上では、そうした微妙な位置にあると言えるかもしれません。
この映画を見て、背景のセットや俳優の台詞には多少違和感を覚えます。しかしそれはこの映画が事実と違うが故の違和感ではなく、これまでに刷り込まれてきたイメージとの落差の故です。もちろんこれまで刷り込まれてきたイメージが客観的な事実であることの保証はありません。ということは、判断の基準になるものを私は持っていないということです。それは私だけでなく、多くの人にとっても同じはずです。特に台詞を介した心理描写については、それがその時代に実際にありえた心理状態なのかどうか知る由はありません。
結局この物語は、極論すれば、歴史というよりは、現時点のわれわれの心情を投影した虚像だと言えるでしょう。登場する「芸者」は、こうあって欲しいと現代人が求める「芸者」のイメージです。物語ですから、人物のキャラクターは自由に創造することが可能です。歴史が現代を照射するのではなく、現代が単に歴史の時間帯に投影されているに過ぎません。一種の自家撞着です。
もしこの映画を、異国趣味の集大成ではなく、歴史的事実による現代への問題提起として読みたいのならば、見えないコンテクストを仮定してみる必要があります。そのコンテクストとは、ピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』(1921年)です。
『作者を探す六人の登場人物』は、劇の中に劇をはめ込むという実験的な作品です。6人からなる家族が、自分達に降りかかった事件(というより彼らの生活そのものですが)を劇として表現したいと考え、演出家に演出を依頼します。その劇の練習風景が劇になっているという構図です。その家族は、劇中の登場人物であると同時に、題材そのものでもあります。その意味するところは、題材が劇として再現されることの不可能性です。題材がそれ自体である限り、それを再現することは不可能であり、もし劇として再現すれば、題材のもつオリジナリティーは消え去るということです。
『SAYURI』は、ある芸者の回想という形式を取ります。しかし彼女はすでに製作者の分身でしかありません。本当の「彼女」は、作者を探しながら闇の中をさまよっているに違いありません。「芸者」とは、仮面です。彼女が仮面を被らなければならない理由は、映画の中で語られている内容とはまったく無関係に、表象あるいは表現というものが持つ宿命です。この映画に、他のハリウッド映画にない深みがあるとすれば、それは「芸者」のミステリアスなあり方と表象の不可能性とが、たまたま一致した結果に過ぎません。
