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2007年04月 アーカイブ

2007年04月03日

天王寺動物園

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大阪の天王寺動物園周辺は、建築的にというか都市的にというか、非常に興味をそそられる場所です。

第一に、都市の中心部に動物園があるということです。これは東京の上野動物園とも共通します。敷地の広さや地形の面白さからいえば、郊外立地の方が適しているでしょうし、実際最近の動物園は郊外につくられることが多いようです。天王寺や上野といった歴史のある動物園が、中心部の交通の便利なところにつくられたのは、ひとつの時代の意志といっても良いでしょう。

第二に、動物園が美術館と隣接しています。これも上野と共通です。動物園は娯楽というジャンルでしょうが、広い意味では文化といってよいかもしれません。文化が都市の中心に来るということです。

第三に、繁華街が隣接するという特徴があります。これが都市計画の結果といえるのかどうかはわかりませんが、天王寺動物園には「新世界」という繁華街が隣接します。同様に上野動物園には上野の繁華街が隣接します。

訪れた都市のすべてで動物園を見に行っているわけではないので、他の都市はよくわかりません。ただ東京と大阪で共通点が見られるということは、これらの点が都市の条件といえるのではないかと私は考えています。都市の指標としては、行政機関の集積度や人口、商業施設の質と量も挙げられますが、しかし都市が都市らしく見える条件を挙げるとすれば、それは動物園の存在ではないかと思います。
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都市は、いろいろなものが入り混じっています。それを政治・経済・文化・生活などに分けて考えることは可能ですし、それはゾーニングという形で都市計画に反映されていきます。しかしゾーニングという手法でつくられた現代の都市が、いきいきとしたイメージを表出しているかといえば、必ずしもそうではありません。むしろ天王寺動物園周辺に、より都市的なイメージを感じてしまうのはなぜでしょうか。もちろんこれも都市計画には違いありませんが、しかし現在の都市計画とは少し違っています。

都市を動かす要因としての欲望をそのまま都市の中心部に閉じ込めるという発想が、以前はあったのはないかと思います。それが都市の濃密さを形成しているのではないでしょうか。現在では欲望は郊外へと発散させられ、密度が希薄化しています。都市の豊かさは、人口の大きさでも、単なる物量的な豊かさでもなく、それがどちらに向かうかにかかっているような気がします。

2007年04月29日

時間の単位

時間の単位には、「秒・分・時・日・週・月・年」などがあります。これは相互に関連していますが、関連の仕方を見ていくと面白いことがわかります。

1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1週間は7日です。これらは一律に対応関係が決まります。それに対して、1ヶ月は28~31日、1年は365あるいは366日ですから、一意的な対応関係ではありません。通常単位というのは、相互に変換可能でなければなりませんが、時間の単位に関してはそうではないようです。

なぜこうしたことが起こるのかというと、時間の単位が天体の動きを後追いしているからです。「日」と「年」は太陽の周りの地球の動き、「月」は月の動きです。「日」と「年」が食い違うのは地球の動きに自転と公転とがあるからで、「月」が他と整合しないのは、月の動きが地球の太陽の周りの動きとはまた違ったものであるからです。これらの別々の動きを無理やりひとつに統一しようとするからこそ、「日・月・年」が複雑な関係に陥ってしまうのです。

「秒」は、初めは1日の長さの86,400分の1で定義されていましたが、それでは不正確だということで、現在では原子の周期によって定義されています。ということは、つまり科学的に正確な単位である「秒」と、「日・月・年」など他の単位とは、正確な対応関係がないということです。こうして問題がますます複雑になります。

科学の分野では「秒」を使えばまったく問題ないのですが、日常生活では「日・月・年」などの単位の方が便利ですし、明るさや季節といった情緒的な部分は「秒」では表わせません。ですから時間の単位には、正確な単位とそうでない単位との2種類あることがわかります。正確でないといってもまったくでたらめというわけではないのですが、「日・月・年」の相互変換に関していえば、どうしても後知恵的な感じがします。しかしそうした正確でない単位には、精神面での親和性というメリットがあります。

時間の単位にはもうひとつ「週」があります。1週間は7日ですから、こちらは「日」という単位を前提にする限りでは正確です。「月・年」とは当然対応しません。不思議なのは、「月」という似通った単位があるにもかかわらず、それと別に「週」という単位が独立してあるということです。7という数字に宗教的な意味があったのかもしれませんが、7日ごとに繰り返す時間というのは、「月」で表現される時間とはまた別の時系列のような気がします。「月」の場合には、12ヶ月たてば同じ季節が回帰しますが、「週」の場合には、7日ごとの回帰以外には回帰はありません。たとえば5月や12月のイメージや季節感というものがあるのと同様に、月曜日や水曜日のイメージというのがそこには生まれるはずです。また曜日以外に回帰するものがないということに、世界と向き合う単独者のイメージを私は想起します。おそらく文化というものにおいて、回帰する時間と回帰しない時間とは二重写しのような構造になっているのではないでしょうか。

2007年04月30日

スーパーレッジェーラ(Superleggera)

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「スーパーレッジェーラ」とは、文字通り「超軽量」という意味です。重量は1.7kgしかありません。デザインしたのは、イタリアの建築家ジオ・ポンティ。彼は、ミラノにあるピレリビルの設計者です。

フレームは木材ですが、軽量化するために、最小限の断面を持った最小限の部材で構成されています。いわば無駄をそぎ落とした後で残った形といえます。無駄のないものは美しいという格言が、そこから導き出されるのかもしれません。確かに緊張感のある形態です。しかし一方で、背もたれ部分での部材の屈折や、脚のカーブなど、軽量化のためというだけでは説明のつかない部分も残っています。

これは、機能的な要求を満たすことが、同時に美的な要求を満たすことでありえるのかという問題につながります。答えはもう明らかで、機能だけでは美とはなりえません。しかし、機能を離れた美というものがありえないことを、それは同時に証明してしまいます。この椅子に関する限り、どんな優美なカーブであろうと、軽量化に反するものは美しくはないわけです。

ところで、この椅子において軽量化は機能であり、美の源泉でもあるのですが、なぜ軽量化が必要だったのかという別の問いが浮かび上がります。椅子一脚の1kgの差など、使用する上では何の不都合も生じません。これは、本当は問いかけてはいけない問いだというべきでしょう。問いかけたとたんに、機能主義と呼ばれる美学が崩壊するわけですから。

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