イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』という小説があります。小説の主人公はマルコ・ポーロで、世界中の珍しい都市の様相を、フビライ汗に語って聞かせるという内容です。そこで語られる都市は、現実世界と寓話的な接点を持ちつつも、現実にはありそうもないような都市です。しかしありそうもないというのは、その都市を見たこともない私たちの勝手な思い込みかも知れず、真偽は判定不可能です。確かなことは、文字によって何か都市らしきものが描写されているということだけです。実体が見えないままでも、言葉によって何らかのイメージはそこに現れてきます。
「見えない都市」からの類推で、「見えない職業」というのもあるのかなとふと思いました。真っ先にこの範疇に入るのは、建築家です。建築物が建った時、そこに実物があるということは、それを造った人々がいるということです。それが職人であることは疑いようがありません。だから職人は「見える職業」です。それと建築にお金を出す人、すなわち建築主がいなくては建築物は建ちません。その意味では、建築主も「見える」と言えます。
これらの「見える職業」に対して、その間に介在する設計という行為は、想像力を駆使しない限り見えてきません。通常は「見えない職業」なのです。表現されたデザインは、建築主の要望です。物としての良し悪しは、職人の腕に掛かっています。設計という行為は、入り込む余地がないか、あるいは建築主や職人の仕事に付随する行為としてしか捉えられていません。
建築の専門雑誌を別にすれば、新しくできた建築物がメディアに載る場合に、設計者の名前が記載されることは稀です。このことからも、建築家の置かれた位置をうかがい知ることができます。とくに日本の場合には、大工が設計から工事まですべて行なうという慣習があるため、設計という行為の独立性が見えにくくなっています。
たしかに建築家なしでも建築物は建ちます。では設計という行為は不要なのでしょうか。建築家は虚業なのでしょうか。
見えるものだけしか信じないというのであれば、「見えない職業」である建築家など不要でしょう。しかしカルヴィーノの『見えない都市』がそうであるように、見えない部分にこそ想像力が働く余地があります。今ここにあるものとは別の可能性を考えられるのが、建築家という職業なのだと私は思います。
