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2008年03月 アーカイブ

2008年03月11日

京都迎賓館

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 京都迎賓館の見学会に行ってきました。午前中は、迎賓館建設に関わった人たちの講演会、そして午後が見学会でした。

 講演会でも言われていましたが、伝統の継承ということが、京都迎賓館のテーマでした。立地が京都だから伝統がテーマになるというよりは、伝統の継承というテーマが先にあり、それを実現するのに適した場所として京都が選ばれたというのが実情のようです。はっきり言ってしまえば、京都に既にある歴史的な文脈を、テーマの実現のために利用しようということです。

 既に何百年もそこに建っていた建築物は、否定できない伝統を持っています。デザインとして良いか悪いかの問題ではなく、ずっとそこにありつづけてきたという事実を、伝統として追認せざるをえないわけです。それに対して、新しく物をつくるという行為には、出来た建物が評価されるという保証がありません。一定の評価を受ければ、その先何十年かあるいは何百年かそこに建ちつづけ、新たな伝統となっていくでしょう。逆に、評価されなかったならば、伝統を語る文脈から脱落し、その建物が壊された時点で、人々の記憶からも消えていくでしょう。

 まわりを歴史的な物が取り囲んでいるといっても、京都迎賓館の建物自体は新築ですから、あらかじめ伝統の継承が保証されているわけではありません。ですから、伝統を継承するためには、そのための戦略が必要になります。京都迎賓館の評価というとき、個々の部分の評価にとどまることはできません。この戦略自体を議論の俎上に載せる必要があります。

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 その戦略とはなんだったのか。それは現在の京都の景観条例に通じるものがあります。「形から入る」ということです。触覚とか嗅覚とかもありますが、基本的には視覚から入る情報で建築や街並みを私たちは判断しています。ということは、見た目が同じなら、そこから得られる判断も同じになるはずです。京都の景観条例の根幹にあるのは、この見た目の維持という考え方です。構造が木造でなくても、見た目が町家ならそれでいいわけです。

 京都迎賓館の構造は、もちろん木造ではありません。鉄筋コンクリート造や鉄骨造です。表面に木を張るなどして木造に見せかけています。しかしこれを捉えて、ただちに偽物だという言いかたはできないと思います。そうした情報を知らなければ、その人自身が見た目で判断するしかないのですから、重要なのは見た目ということになります。むしろ、構造と表現を切り離すことで、部分のデザインを自由にできるというメリットもあります。

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 テーマは日本の伝統の継承です。部分のデザインでは、歴史的な建物から抽出されたディテールが使われています。材料には一流の物が使われ、それを一流の職人が加工しています。壁画や調度品にも、もちろん伝統工芸の職人技がつぎこまれています。これで見映えがしないはずがありません。しかし、映像で見るのと、実際に見るのとでは全然印象が違うのです。部分ごとに見ていけばもちろん素晴らしいのですが、空間として体験したときには、全然和風でもないし、伝統が継承されているようには思えません。はっきりいえばオーラがないのです。新築の建物に、何百年もそこに建ち続けてきた建物が発するようなオーラを求めるのは酷かもしれません。しかし、京都迎賓館の場合には、何百億という金をつぎこんででも、そのオーラが実現したかったはずなのです。それと、新築だからオーラがないというのは言い訳にすぎません。新築でも、入ったとたんに、何か凄味を感知させる建築というのはあります。

 京都迎賓館の場合、おそらくは伝統というものの抽出の仕方が間違っているということなのです。精神は形を通してしか表現されないのですから、伝統的なものから形を抽出してくるしかないのですが、その抽出されたものが、ことごとく的をはずしていたということなのでしょう。

2008年03月13日

もてなしとは

 先日の京都迎賓館見学会に先立って、講演会がありました。講師は、京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生氏、野村美術館学芸部長の谷晃氏、瓢亭第14代当主の高橋英一氏。テーマは「もてなしについて」。迎賓館が外国要人をもてなすための施設であることから選ばれたテーマです。日本らしい、あるいは京都らしいもてなしとは何かを考えていこうという趣旨です。

 興味深かったのは、高橋氏が紹介した次のようなエピソードです。

   ヘルシーだということもあり、世界中で日本料理がブームに
   なっている。しかしニューヨークのレストランで出される日
   本料理は、日本の日本料理とは全然違う。味付けは濃くて、
   アメリカ人好みになっている。もし日本の味付けをそのまま
   出したら、おいしいとは思ってくれない。しかし、アメリカ
   人などが日本に来たとき、日本のそのままの味付けで出して
   もおいしいと言ってくれる。

彼らが日本に来たときだけお世辞を言っているのではないでしょう。どちらも本心なのだと思います。おいしさといった場合、目の前にある料理だけが問題ではなく、それが出される場(フィールド)が重要な役割を果たすということなのでしょう。

 場というのは、日本とアメリカという地理的な違いのことではなく、もてなす側ともてなされる側という立場の違いのことです。異なった場に置かれることで、味覚という主観的なものまでも変わってきてしまうということ、ここに「もてなし」の秘密があるのではないかと思います。

 もてなす側に、もてなすための安定した基盤があること、もてなされる側にも、異なる文化を異なるままに受け入れる基盤があることが、もてなしが成立するための条件と言えるかもしれません。箸の使いかたが間違っているとか、味付けが薄いとか、相手のあら捜しをしはじめたら、きりがないし、もてなしなど成立するはずもありません。感じかたというのはしょせんは主観だとはいえ、お互いが自分たちの属する文化の価値をあらかじめ知っているというのが、いわゆる大人の対応が取れるための条件なのでしょう。自分たちの文化に対する自信と言い換えてもいいかもしれません。そうした文化の価値を確認するためにも、迎賓館という「器」の建設が必要だったのでしょう。

 でも裏返せば、自分たちの文化の根拠を、はるか昔の様式にしか求められないということは、現在のアイデンティティーの危機でもあるのですが。

2008年03月19日

『有栖川の朝』

 数年前に、皇族の名前を使って結婚披露宴を開き、ご祝儀を手に入れようとした「詐欺事件」がありました。この披露宴に出席した人たちも、おそらく納得ずくのことだったでしょうし、被害額もそれほどではないので、これを詐欺事件として立件するのもどうかなとは思いますが、それはともかくここでは詐欺事件ということにしておきます。

 久世光彦の『有栖川の朝』は、この詐欺事件を題材にした小説です。有栖川は、京都市右京区を流れる川で、桂川に合流します。詐欺事件の主人公の一人(新郎の役)がこのあたりの出身だという設定になっています。

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 新郎役、新婦役、そして計画の首謀者の女性、この三人が主人公ですが、彼らに共通するのは、居場所のない人たちだということです。地位もなく、安定して住む場所すらない、そこにいるにも関わらず社会的には「見えない」人たちです。それに対して、彼らが成りすまそうとした有栖川宮をはじめとする皇族というのは、地位が保証され、誰の目からも常に見えるような場所にいる人たちです。いわば社会的に両極に位置します。

 高度成長は、人々に居場所を与え、社会を平準化したはずでした。正社員という地位、マイホームという場所、そして家族という精神的な支え。しかしそうした枠組からこぼれ落ちた人たちも厳然としているわけで、それが無一文からのし上がるサクセスストーリーを生むことにもなり、逆に社会への不満が犯罪という形で表現されることにもなるわけです。

 主人公たちは、無から有への飛躍を実行しようとしたかに見えます。しかし彼らは、有栖川宮の地位が本当の目的だったわけではありません。お金が目的だったことは確かですが、その金を現在の境遇から抜け出すために使おうとしているようには見えません。彼らと、彼らが僭称した皇族との間には、圧倒的な距離があり、その距離がこの詐欺事件を成立させる条件であるにも関わらず、彼らは結果として得られるものには無頓着なようです。かといって社会への復讐として事件を起こしたというのも当たらないでしょう。

 地位や名誉や財産といったものは、既に相対化されています。そんなものに価値は置かれていません。動機として残るのは、演じている自分たちの、その瞬間ごとのリアリティーではないでしょうか。人間の価値を決めるのは地位やお金ではないときれいごとをいっても、結局はその価値基準で世界は動いています。だからその裏返しである犯罪においても、お金を得ることで犯罪者は自分の存在を確認したいわけです。しかし、この小説では、こうした既存の価値基準があっさりと否定されています。安定した場所に永遠にたどりつけない宙づりの状況にこそ、リアリティーを見出しているともいえます。

 「見えない」存在である彼らは、既に安定した居場所のある人からは永遠に見えないままです。つまり「動機」などわかるはずがありません。しかし「見えない」ことは、そのまま無秩序を意味するわけではなく、無価値でもありません。逆に、「人生はすべて配役の問題である」という首謀者の言葉は、そこに積極的な秩序があることを示しています。見えないものにこそリアリティーがある、それは『博士の愛した数式』で描かれた数学の世界にも似ています。

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