数年前に、皇族の名前を使って結婚披露宴を開き、ご祝儀を手に入れようとした「詐欺事件」がありました。この披露宴に出席した人たちも、おそらく納得ずくのことだったでしょうし、被害額もそれほどではないので、これを詐欺事件として立件するのもどうかなとは思いますが、それはともかくここでは詐欺事件ということにしておきます。
久世光彦の『有栖川の朝』は、この詐欺事件を題材にした小説です。有栖川は、京都市右京区を流れる川で、桂川に合流します。詐欺事件の主人公の一人(新郎の役)がこのあたりの出身だという設定になっています。

新郎役、新婦役、そして計画の首謀者の女性、この三人が主人公ですが、彼らに共通するのは、居場所のない人たちだということです。地位もなく、安定して住む場所すらない、そこにいるにも関わらず社会的には「見えない」人たちです。それに対して、彼らが成りすまそうとした有栖川宮をはじめとする皇族というのは、地位が保証され、誰の目からも常に見えるような場所にいる人たちです。いわば社会的に両極に位置します。
高度成長は、人々に居場所を与え、社会を平準化したはずでした。正社員という地位、マイホームという場所、そして家族という精神的な支え。しかしそうした枠組からこぼれ落ちた人たちも厳然としているわけで、それが無一文からのし上がるサクセスストーリーを生むことにもなり、逆に社会への不満が犯罪という形で表現されることにもなるわけです。
主人公たちは、無から有への飛躍を実行しようとしたかに見えます。しかし彼らは、有栖川宮の地位が本当の目的だったわけではありません。お金が目的だったことは確かですが、その金を現在の境遇から抜け出すために使おうとしているようには見えません。彼らと、彼らが僭称した皇族との間には、圧倒的な距離があり、その距離がこの詐欺事件を成立させる条件であるにも関わらず、彼らは結果として得られるものには無頓着なようです。かといって社会への復讐として事件を起こしたというのも当たらないでしょう。
地位や名誉や財産といったものは、既に相対化されています。そんなものに価値は置かれていません。動機として残るのは、演じている自分たちの、その瞬間ごとのリアリティーではないでしょうか。人間の価値を決めるのは地位やお金ではないときれいごとをいっても、結局はその価値基準で世界は動いています。だからその裏返しである犯罪においても、お金を得ることで犯罪者は自分の存在を確認したいわけです。しかし、この小説では、こうした既存の価値基準があっさりと否定されています。安定した場所に永遠にたどりつけない宙づりの状況にこそ、リアリティーを見出しているともいえます。
「見えない」存在である彼らは、既に安定した居場所のある人からは永遠に見えないままです。つまり「動機」などわかるはずがありません。しかし「見えない」ことは、そのまま無秩序を意味するわけではなく、無価値でもありません。逆に、「人生はすべて配役の問題である」という首謀者の言葉は、そこに積極的な秩序があることを示しています。見えないものにこそリアリティーがある、それは『博士の愛した数式』で描かれた数学の世界にも似ています。
