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土地の記憶

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スメタナの交響詩『わが祖国』のピアノ連弾版全曲演奏会を昨日聴きに行きました。同じ演奏者による第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」を以前聴いたことがあり、この機会に全6曲をぜひ聴いてみたいと思ったからです。

「わが祖国」は、スメタナの故国チェコを指しています。20世紀になるまで、チェコはドイツやオーストリアの支配下にありました。ドイツ語が公用語となり、文化的にもドイツ語圏への同化が進行して行きます。そうした状況下で、自分達の民族的なアイデンティティーを守るために、芸術家が立ち上がります。彼らは「国民学派」と呼ばれます。スメタナはその代表的な人物です。

スメタナは、民族の独立を直接的な形で表現したわけではありません。「わが祖国」は風景の描写に徹していますし、スメタナ自身もこの曲を風景の描写としてしか解説していません。しかしそれが逆に民族の固有性を浮かびあがらせます。分断された個人が民族として共有できるものを探し求めるとき、まず最初に来るのは言語でしょう。しかし、言語は表現されるべき対象と切り離すことはできません。つまりその言語で何を語るべきかが次に問われることになるわけです。言葉が政治性を帯びる以前に、まず共有できる価値観を見定める必要があります。そうして突き詰めて行った結果残るのは、言語によってその土地を記憶に残すという作業ではないでしょうか。つまり民族性を根底において支えるのは、土地の記憶なのではないかと思うのです。

長調と単調との交錯や、不思議な響き、民謡から題材を取ったフレーズが現れるとはいえ、スメタナがそれだけを頼りに民族性を主張しているのではないということに注目する必要があります。音楽としての完成度があってはじめて、そうした素材も生きてきます。当時音楽の完成度を図る標準は、やはりドイツ文化なのでしょう。いったんそのドイツ文化を枠組みとして受け入れた上で、それでも消し去ることのできない固有性がにじみでてくるような構成になっているわけです。ですから、歴史的な文脈なしで聴いた場合でも、この曲を完成度の高い曲として聴くことができます。そうした前提にチェコの土地の記憶が加わった時、はじめてそれが民族として共有できる財産となるのでしょう。

民族固有の価値というのは、むしろいったん普遍性を目指すものの中にこそ見出されるのではないかと思います。そうした中で見出された固有の価値が、逆に枠組み自体を相対化し、異なる価値観の間での交流を促すのではないでしょうか。逆に普遍性への志向なしでの民族性の主張は、京都迎賓館を例に上げるまでもなく、茶番に終わるしかありません。

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2008年04月26日 13:03に投稿されたエントリーのページです。

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