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2008年09月 アーカイブ

2008年09月14日

『ダークナイト』

 バットマン・シリーズは基本的には寓話です。イソップ寓話に登場する動物がそうであるように、登場人物はまったくのステレオタイプであっても構いません。普段は決まりきった行動が物語として繰り返されていくだけです。しかし時として、物語を成立させる根源の部分が露呈してしまうことがあります。それが寓意です。寓意によって、登場人物にステレオタイプを強制していた枠組そのものが無効になり、これまでの価値観をリセットする必要に迫られます。

 ティム・バートンの『バットマン』(1989年)は、まさしくそうした寓話の構造を取っていました。正義と悪の根源という主題は、設定された登場人物のステレオタイプな動きの中から、結果として浮かび上がるものとされていました。それに対してクリストファー・ノーランの『ダークナイト』(前作の『バットマン・ビギンズ』も同様です)は、正義と悪の根源という主題を真正面から描き出そうとします。そのために、登場人物の心理面の描写が重視されます。いわば人間ドラマとして再構成しようということなのでしょう。

 バートンとノーランを比較するならば、やはりバートンに軍配が上がります。つまり、寓話によってしか描けないものがあるということです。どんな名優を配したとしても、心理描写として描かれる善悪などは、すでに解釈済みの善悪でしかありません。もちろんそれは一定の説得力は持つかもしれません。しかしそれが理解されやすいのは既視感があるからであり、その時点で既に、新鮮な感覚や体験ではなくなっているからです。これに対して寓話は、リアリズムを始めから放棄しています。あくまで仮説としての物語ですから、その先の話を信じようと信じまいと、それは鑑賞者の自由です。また結果をどう解釈するかも鑑賞者の自由です。解釈はひとつとは限らないでしょう。しかしいずれにしても、結果としての寓意が、私たちの日常的な思考の枠を軽々と乗り越えるポテンシャルを持っているということだけは確かです。

 『バットマン』の寓意とは、結局、正義と悪とは不可分だということでした。『ダークナイト』は、この結論を出発点にして、それをいかに観客にわかりやすく提示するかという観点から構成されています。両方の映画から受ける印象は似ていますが、方向性はまったく逆です。『ダークナイト』では、寓話が寓話である間だけ持ち得る先鋭性は始めから失われています。

2008年09月21日

『昼顔』

 今年は、京都市とパリ市が姉妹都市提携を結んでから50周年にあたるそうです。それを記念して、京都駅ビルでは、フランス映画祭が開催されています(9月28日まで)。

20080921a.jpg

 先日京都駅に出かけたとき、たまたまルイス・ブニュエル監督の『昼顔』を上映していたので、見てきました。

 数字を演算記号でつないでいくとします。たとえばこんなふうに。

 1+2-3×4÷5+6×7÷8-9

読むときは左から読んでいきますが、計算の順序は左から順番ではありません。かけ算と割算が先です。かけ算と割算が一通り終わった後で、左から順番に足し算と引き算とが行われ、答えがでます。この場合はそうしたルールが確立しているので、誰が計算しても答えはひとつです。しかし途中に( )を挿入すると、計算の結果は変わってきます。たとえば、

 1+(2-3)×4÷5+6×7÷8-9 あるいは
 1+2-3×4÷(5+6×7)÷8-9

( )内がかけ算や割算よりも優先するというルールがあるからです。( )の位置が決まれば当然それに対応したひとつの計算結果が出るのですが、もし仮に、( )の位置を計算する人が自由に設定できるというルールだったならば、何種類もの( )の設定があることになり、答えはひとつには決まりません。『昼顔』はそんな映画なのではないかとふと思いました。

 映画の鑑賞には、もちろんどこに( )を入れるかというルールはありません。時間の経過に沿って見ていくだけで十分な映画もありますが、『昼顔』のように、鑑賞者が独自に( )を挿入することなしには意味をなさない映画もあります。『昼顔』は、( )を挿入する位置次第でまったく意味が正反対になるような映画です。

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 映画の冒頭の場面。現実の場面だと想定して見ていると、それはどうやら妄想なのだということがわかってきます。ここで現実と妄想とを区別しなければならないという大まかなルールは理解できますが、それ以降の場面をどう区別していくのかは見る人それぞれの判断です。たとえば過去のフラッシュバックとされる場面。現実にあった過去なのか、それともこれもまた主人公の妄想なのか、それは鑑賞者の判断に任されています。

 表面的には何不自由ない生活を送る人妻、その心に潜む空虚、自分探しの旅。そんなふうに語られがちなストーリーですが、そこに主人公の内面を見出すのは間違いだと思います。というよりも、主人公の心理に寄り添い、感情移入していくという通常のドラマのあり方が、ここでは完全に反転されているのです。カトリーヌ・ドヌーブ演じる主人公に内面の葛藤はありません。あるのは、現実と妄想との対比、娼館で働く彼女と普段の彼女との対比として画面に表現されたものだけです。内面が外面化されて見る人に晒されてしまっていると言ってもいいかもしれません。ですから既に主人公には内面は残されていないのです。主人公の葛藤に代わって、判断は鑑賞者に委ねられることになります。映画の中に現れる場面を妄想と受け止めるとしたら、それは主人公の妄想ではなく、鑑賞者の抱く妄想なのです。

 こうして、画面に主人公の動きを追いながら、実は鑑賞者は自分自身を眺めていることになります。ここでは映画を見るという行為は、画面との対話ではなく、ひたすら孤独なモノローグになります。

2008年09月27日

『ぼくの伯父さん』

 先週に引き続いて、京都駅ビルで映画を見ました。ジャック・タチ監督・主演の『ぼくの伯父さん』というコメディーです。

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 ひとつひとつの動作、ひとつひとつの場面、すべてが笑いを誘います。たとえば主人公の少年ジェラールの家は、近代建築の見本のようなつくりなのですが、門と玄関を結ぶアプローチがS字を描いています。来客はS字に沿って玄関に向かい、出迎える側は同様に玄関から門の方へS字に沿って歩きます。そしてS字の真ん中で出会うという設定です。ただこれだけのことなのですが、それが劇的な効果をあげていて、自然と笑いが込み上げてくるのです。

 この映画の笑いは、言葉によるものではなく、動きによるものです。動作の反復や、決まった手順に沿って行動することが、笑いに転化してしまうのです。

 ジェラールの家では、家事はオートメーション化されています。ドアや窓の開閉は電動、掃除は掃除ロボット。キッチンで料理の味付けをする時も、ソースはホースのノズルから出てきます。自分の手でやった方が効率が良いことまでも、無理やり機械にさせているようで、それが滑稽です。しかし、行き過ぎた近代化を笑い飛ばそうという趣旨ではないと思います。たとえばユロ氏(ジェラールの伯父)が住んでいる古いアパートは、迷路のような廊下や階段を抜けないと、最上階のユロ氏の部屋にたどり着けません。彼はこの動作を毎日繰り返すのです。それだけではなくて、部屋に帰ると窓を開け、隣人が飼っている小鳥にあいさつをします。こうした決まり切った動作が、なぜかユーモラスなのです。ですからこの映画の笑いは、登場人物の型にはまった動作や、それを反復することへのこだわりに起因するのだと思います。

 動作の本来の目的がどうであれ、手順を反復することへのこだわりが笑いに転化する例は、けっこう身近にもあります。たとえばファーストフード店のマニュアル通りの接客などは、この映画の笑いのセンスにかなり近いと言えるでしょう。

 動作や手順が、合理的でないこと、その場面の雰囲気と違うこと、意味がない程に過剰であること、これらが笑いの源泉だとすれば、その笑いはこれらの源泉への批判でもあるのですが、笑いの効用はもちろんそれだけにとどまるものではありません。ユロ氏が住む昔ながらの下町にも、ジェラールが両親と住む近代化された家にも、等しく笑いが生まれるということが重要だと思います。

 古い街並みや昔からの習慣を大事に守っていこうというこだわりは、時として滑稽に映ることもあります。でもそれでいいのです。こだわりがなくなってしまえば、古いものの保存は行われなくなってしまいます。こだわりは、文化であると同時に笑いの種でもあります。無理に分ける必要もないというより、分けられないものなのです。同様に、近代化された家に住むというこだわりも、傍から見れば笑いを誘うだけなのかもしれません。でもそれでいいのです。それが文化というものです。

 文化は、その成り立ちからして、笑いを内包しているのです。逆説的に、笑いをもたらさないものには、文化と呼ばれる資格はないとも言えます。

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