『ダークナイト』
バットマン・シリーズは基本的には寓話です。イソップ寓話に登場する動物がそうであるように、登場人物はまったくのステレオタイプであっても構いません。普段は決まりきった行動が物語として繰り返されていくだけです。しかし時として、物語を成立させる根源の部分が露呈してしまうことがあります。それが寓意です。寓意によって、登場人物にステレオタイプを強制していた枠組そのものが無効になり、これまでの価値観をリセットする必要に迫られます。
ティム・バートンの『バットマン』(1989年)は、まさしくそうした寓話の構造を取っていました。正義と悪の根源という主題は、設定された登場人物のステレオタイプな動きの中から、結果として浮かび上がるものとされていました。それに対してクリストファー・ノーランの『ダークナイト』(前作の『バットマン・ビギンズ』も同様です)は、正義と悪の根源という主題を真正面から描き出そうとします。そのために、登場人物の心理面の描写が重視されます。いわば人間ドラマとして再構成しようということなのでしょう。
バートンとノーランを比較するならば、やはりバートンに軍配が上がります。つまり、寓話によってしか描けないものがあるということです。どんな名優を配したとしても、心理描写として描かれる善悪などは、すでに解釈済みの善悪でしかありません。もちろんそれは一定の説得力は持つかもしれません。しかしそれが理解されやすいのは既視感があるからであり、その時点で既に、新鮮な感覚や体験ではなくなっているからです。これに対して寓話は、リアリズムを始めから放棄しています。あくまで仮説としての物語ですから、その先の話を信じようと信じまいと、それは鑑賞者の自由です。また結果をどう解釈するかも鑑賞者の自由です。解釈はひとつとは限らないでしょう。しかしいずれにしても、結果としての寓意が、私たちの日常的な思考の枠を軽々と乗り越えるポテンシャルを持っているということだけは確かです。
『バットマン』の寓意とは、結局、正義と悪とは不可分だということでした。『ダークナイト』は、この結論を出発点にして、それをいかに観客にわかりやすく提示するかという観点から構成されています。両方の映画から受ける印象は似ていますが、方向性はまったく逆です。『ダークナイト』では、寓話が寓話である間だけ持ち得る先鋭性は始めから失われています。



