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『ぼくの伯父さん』

 先週に引き続いて、京都駅ビルで映画を見ました。ジャック・タチ監督・主演の『ぼくの伯父さん』というコメディーです。

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 ひとつひとつの動作、ひとつひとつの場面、すべてが笑いを誘います。たとえば主人公の少年ジェラールの家は、近代建築の見本のようなつくりなのですが、門と玄関を結ぶアプローチがS字を描いています。来客はS字に沿って玄関に向かい、出迎える側は同様に玄関から門の方へS字に沿って歩きます。そしてS字の真ん中で出会うという設定です。ただこれだけのことなのですが、それが劇的な効果をあげていて、自然と笑いが込み上げてくるのです。

 この映画の笑いは、言葉によるものではなく、動きによるものです。動作の反復や、決まった手順に沿って行動することが、笑いに転化してしまうのです。

 ジェラールの家では、家事はオートメーション化されています。ドアや窓の開閉は電動、掃除は掃除ロボット。キッチンで料理の味付けをする時も、ソースはホースのノズルから出てきます。自分の手でやった方が効率が良いことまでも、無理やり機械にさせているようで、それが滑稽です。しかし、行き過ぎた近代化を笑い飛ばそうという趣旨ではないと思います。たとえばユロ氏(ジェラールの伯父)が住んでいる古いアパートは、迷路のような廊下や階段を抜けないと、最上階のユロ氏の部屋にたどり着けません。彼はこの動作を毎日繰り返すのです。それだけではなくて、部屋に帰ると窓を開け、隣人が飼っている小鳥にあいさつをします。こうした決まり切った動作が、なぜかユーモラスなのです。ですからこの映画の笑いは、登場人物の型にはまった動作や、それを反復することへのこだわりに起因するのだと思います。

 動作の本来の目的がどうであれ、手順を反復することへのこだわりが笑いに転化する例は、けっこう身近にもあります。たとえばファーストフード店のマニュアル通りの接客などは、この映画の笑いのセンスにかなり近いと言えるでしょう。

 動作や手順が、合理的でないこと、その場面の雰囲気と違うこと、意味がない程に過剰であること、これらが笑いの源泉だとすれば、その笑いはこれらの源泉への批判でもあるのですが、笑いの効用はもちろんそれだけにとどまるものではありません。ユロ氏が住む昔ながらの下町にも、ジェラールが両親と住む近代化された家にも、等しく笑いが生まれるということが重要だと思います。

 古い街並みや昔からの習慣を大事に守っていこうというこだわりは、時として滑稽に映ることもあります。でもそれでいいのです。こだわりがなくなってしまえば、古いものの保存は行われなくなってしまいます。こだわりは、文化であると同時に笑いの種でもあります。無理に分ける必要もないというより、分けられないものなのです。同様に、近代化された家に住むというこだわりも、傍から見れば笑いを誘うだけなのかもしれません。でもそれでいいのです。それが文化というものです。

 文化は、その成り立ちからして、笑いを内包しているのです。逆説的に、笑いをもたらさないものには、文化と呼ばれる資格はないとも言えます。

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2008年09月27日 20:53に投稿されたエントリーのページです。

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