時間の流れは一方向で、誰にとっても等しく作用しています。道路の流れの中にいるのと同じで、風景は変わっていっても、まわりにいる人々は同じ顔ぶれのままです。ここには出会いというものはありません。出会いとは、衝突のようなものです。出会いを可能にするには、時間の流れに逆らって動く必要があります。出会いとは、進んで行く時間と逆向きの時間とが交差する一瞬です。その一瞬にエネルギーが凝縮されます。しかし一瞬が過ぎれば、人は互いに逆方向に進むので、もう二度と会うことはありません。
逆向きの時間を生きるということは、孤独を恐れずに自分の道を進むことの比喩と言えるでしょう。しかし単にそれだけにとどまるのではありません。そこにはもうひとつのテーマが隠されています。
人生の最初と最後には、家族や社会の保護を必要とする時期があります。これらを入れ替えたとしても、社会の仕組みは変えずに済ませられるでしょう。しかし、歳をとっていくことと、だんだん若くなっていくこととは、たとえ入れ替えが可能だったとしても、完全に可逆的にはなり得ません。なぜなら、時間が逆に進むということは、記憶が蓄積されないということだからです。時間を逆に進む者にとっての過去は、実は未来のことですから、もしそれが記憶に残ってしまえば、未来の予測が可能になってしまいます。しかし確実に予測できる未来などあり得ないはずですから、時間を逆に進む者の記憶はその都度消去されていかなければならないのです。もし記憶が蓄積されていくのであれば、外見は老人と子供とで異なっていても、中身は同じように歳をとっていきます。つまり同じ方向の時間を生きていることになってしまいます。
この映画のテーマは、人間にとって記憶とは何なのかと問いかけることです。ただし、完全に記憶を持たない主人公では、ストーリーそのものが成立しなくなってしまうので、映画や小説ではこのテーマは暗示されるしかありません。
ベンジャミンが歳をとって子供になったときの場面では、彼はそれまでの記憶を失っています。実はこれが、時間が逆に進むということなのです。それ以前のエピソードは、すべてこの場面のためにあったのだと私は即座に理解しました。老人が、自分の記憶をたどり、自分の生きてきた意味を確認しながら最期を迎えることと対比して、ベンジャミンには何も残っていないのです。これこそが究極の孤独と言えるのかもしれません。
記憶なしには、人間は時間を認識出来ません。そして記憶とは、アイデンティティーそのものだとも言えるでしょう。『ブレードランナー』のアンドロイドは、子供のころの記憶を執拗に追い求めます。記憶を手にいれることで、彼らは人間としての証明を得ようとしていたのです。記憶-時間-アイデンティティー、これらは別々のようでいて、実は同じものなのです。
