『7つの贈り物』
ウィル・スミス演じる国税徴収係と、彼が調査する納税滞納者との間には、越えられない壁があります。税金滞納者は、弱みを握られた状態で国税徴収係と向き合います。立場が対立しているというだけでなく、そこには一種の主従関係があるのです。そんな中で、相手の心を開かせることが可能なのかどうか、そしてそれが可能だとすれば、それは宗教における神と人間との関係に近いのではないか、とはじめは漠然と考えていました。
この映画では、国税徴収係が相手の心を開かせようとする目的は、税金を徴収することではもちろんありません。反対に、納税を猶予したり、便宜を図ったりしてやります。その見返りを求めるわけでもなく、ただ相手の喜ぶ顔が見たいという動機によって行動しているように見えます。相手に喜びを与えることで、相手の運命を操作しているような錯覚に陥るのかもしれません。
運命を操作することは、もし神というものがいるのならば、神の領域に属する事項です。苦難を与えると同時に、救いの手を差しのべること。国税徴収係は、それを自分の仕事上の立場を利用して真似してみただけなのかもしれません。しかし単純にそうした善人の話ではないということが、ストーリーの展開に連れてだんだんと明らかになっていきます。ここではストーリーの説明は省略しますが、それまでのすべての場面が結末に集約される構成になっています。
善人の物語で終わらないのは、国税徴収係が、気まぐれではなく本気で運命を操作することを望み、それを実行したからです。真似ごとではなく、神の地位に取って代わること。彼の行動を自己犠牲と呼び、称賛することもできます。しかしどうしても割り切れないものが残ります。
運命を数学的な確率の問題として考えるのか、それとも人格を持った神の意志と考えるのか。そこにまず分岐点があります。しかし、いずれにしても運命を受け入れることが可能なのは、それらが人間の意志を越えて平等に作用するからです。もし運命を覆そうとするならば、確率に頼ることはできないので、神の地位に近づくか、あるいは神そのものに成り代わるしかありません。しかしここに根本的な背理が生じます。そうして新たに切り開かれた運命は、もはや平等を保証するものではなくなっているからです。
選ばれた人がいる一方で、選ばれなかった人もいるわけです。選ばれた人と、選ばれなかった人との間には、越えられない溝があります。この事実は、何が起ころうと変えようがありません。問題は、単純にして厳然としたこの事実を、『7つの贈り物』の論理構成が隠蔽してしまっているということです。運命を変えたいという切実な希望に、「贈り物」を与えることで応えてしまうこの宗教的な論理こそが背理なのです。



