好きな曲のひとつに、ビル・エバンス・トリオが演奏した"Someday My Prince Will Come"があります。もともとはディズニー映画『白雪姫』の中の曲です。ジャズでは、このように他のジャンルの曲を演奏することがよくあります。ただし、元の曲のメロディーが一通り演奏されると、すぐにアドリブ演奏に移り、元のメロディーはほとんど判別できなくなります。たいていはアドリブの方が長く、10分以上続くこともあります。そしてたいてい最後に、元のメロディーがもう一度演奏されて曲が終わります。
主題は印象的なメロディーですが、時間的には短くて、曲のほとんどがアドリブ演奏です。アドリブこそが聴かせどころなのかも知れません。しかしこうした形式はジャズに限ったものではありません。主題と変奏という意味では、モーツァルトの変奏曲もこの形式です。しかも、他の作曲家によるメロディーが主題になることが多いというのも共通しています。
ジャズにしてもモーツァルトにしても、変奏の部分に創作意図があるのは明白です。しかしあえて邪道であることを承知の上でいえば、そうした曲で私が一番興味を引かれるのは、主題の方なのです。それもアドリブや変奏がひととおり終わり、主題のメロディーが戻ってくる瞬間にその曲の美しさを感じます。それまでのアドリブや変奏は。主題を引き立てるためにあったかのように思うこともあります。
話は倒錯してきます。主題のメロディーが「借り物」の場合、聴いた人の心に残るのが結局元のメロディーということになれば、延々と続く変奏の部分はいったい何のためなのかと話になってきます。こうした倒錯を解決するには、曲という言葉の定義を変更するしかないでしょう。ですからジャズの場合は、演奏そのものが曲なのです。主題は仮のものであって、アドリブが始まれば、その一瞬ごとが曲そのものなのです。
しかし、それでもなお、私がこだわりたいのは主題の方です。というよりも、正確に言えば主題と変奏との関係です。主題は、メロディーとは限りません。ある一定の小節数といった形式のことなのかもしれません。変奏は主題なしでは成り立ちませんが、逆に主題も、変奏があって初めて水面上に姿を現すことができるのではないかと思うのです。われわれが感じることができるのは表面だけです。つまり変奏の部分だけです。冒頭で演奏されるメロディーでさえ、既に手を加えられたものです。ですから本当の主題は、変奏の中から浮かび上がるしかありません。そう考えると、たとえ擬制であっても、演奏の最後に主題がくっきりと浮かび上がるということは、変奏やアドリブの完成度が高いということになるのではないでしょうか。曲の完成度は、このように間接的に判断されるべきものだと思います。
浮かび上がる主題は、技巧に彩られた変奏に比べれば、あっけないほど単純です。しかしその単純さは、複雑な変奏という迂回によってしか表現され得ないのかもしれません。