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2009年07月 アーカイブ

2009年07月26日

禁酒法の再来

 1920年から1933年までの間、アメリカ合衆国では禁酒法が施行されていました。飲料用アルコールの製造・販売・運搬等を禁止するというものです。自宅での飲酒は禁止されたわけではありませんが、つくることも、輸入することも、購入することもできないわけですから、事実上の全面的な禁酒を強制するものです。

 飲酒という個人の自由にまで踏み込んだ法律が施行されたのには、それなりの理由があります。過度の飲酒が健康を害するという理由、不健全な酒場の横行が風紀を乱すという理由、酒場に入り浸ることによる家庭生活の破壊、食糧にまわす穀物が不足するという理由等。それらは総論としてはもっともですが、強制力を伴ってでも酒を禁止する理由になるかどうか、甚だ疑問です。しかし、いろいろな政治的な駆け引きの末、法律は成立してしまいました。

 禁酒法がどういう結果をアメリカにもたらしたのかは、すでに御存じだと思います。禁酒法は、アル・カポネを筆頭とするギャングのイメージと切り離すことができません。酒の密造や密輸、闇酒場の運営がギャングの資金源になり、こうしたイメージがつくられていったのです。


 話は変わります。京都市では、2007年から景観条例が施行されています。歴史都市の景観を守っていこうという趣旨ですから、総論としては悪いはずはありません。私も、以前から建物に規制をかけること自体には賛成を表明しています(『形から入る』)。しかしこの条例の運用をめぐっては、施行されてからの2年間の間に、次々と問題点が明らかになってきています。おそらく禁酒法と同じように、歴史的な悪法として名をとどめることになるでしょう。

 10年後か20年後、景観条例に従って建てられた建築物を見て、人々はこんなふうに言うのではないでしょうか。
「マンションの外廊下もバルコニーも目隠し用のルーバーだらけ。まるで刑務所か動物園の檻の中で暮らしているみたいだ。」
「景観に配慮して外壁はタイルにしたものの、5階建なので、足場をかけないと点検も補修もできない。」
「勾配屋根にして軒を出し、先端に軒樋をつけたが、6階建のビルで、どうやって軒樋の掃除や補修をするのか。」

 景観条例の問題点は、まず第1に、技術的な解法よりも理念が優先していることです。構造的・設備的な合理性や、将来のメンテナンスへの備えよりも、まず「京都風」の外観ありきなのです。全国で古い建物の耐震改修が進められていますが、京都では外壁にブレース(筋かい)を取り付けて補強した場合、そのブレースをルーバー等で隠すことが要求されます。もちろん余分なお金がかかることになるので、耐震改修の普及にとってはマイナスです。それはともかくとして、ブレースですから当然斜めの線が出てくるわけですが、屋根や庇の勾配以外は、デザイン要素として斜めの線を認めないというのが京都市の方針のようです。モンドリアンのように、斜めの要素をすべて認めないというように徹底するならまだしも、美学的な視点からいっても、かなり御都合主義的な解釈と言わざるを得ません。

 問題点の第2は、行政の対応の硬直化です。景観条例は、理念の上では、市民が自ら新しい景観をつくり出していくということになっていますが、実際には前例のないデザインが認められる余地がほとんどありません。これは、条例を「ザル法」にさせないために、例外を認めないということを基本方針にしているからです。また、自己保身からか、判断に迷うような案件は、保守的な方に解釈するような心理が働くというのもあるでしょう。ですから、現代的なものは認めず、エアコンの室外機のような、現代的なものであっても必要不可欠なものは、人の目から隠すというのが基本方針のようです。エアコンの室外機は、風の流れで冷却をしていますから、囲うのはあまりいいことではないのですが、ここでも「京都風」の外観の方が合理性に優先するのです。

 問題点の第3は、建築主や設計者の、行政への迎合です。法律の改正や廃止のために動くのではなく、率先して行政の指導を受け入れ、それを「京都風」のデザインとして売り出そうとしているのです。これは、通常数ヵ月かかる景観条例による申請を少しでも短縮してもらおうという魂胆もあるわけですが。本来条例の条文にない事項を強制される必要はないのですが、現実には、拡大適用があたりまえのように行われています。

 実は、第3として述べたような状況に持っていくことが、行政の狙いであったと言えるのかもしれません。行政が自ら手を染めなくても、設計者が自発的に「京都風」を拡大再生産してくれるわけですから。しかし、長い目で見ればこれが一番の問題点で、設計者は、自ら考えるということを放棄しているということなのです。また行政の側にも、本当の意味でのビジョンがあるとは思えません。それは、上で述べたように、行政の個々人には自己保身が働きますから、結局前例に従ったものしか認めないということになるのです。誰も判断する主体がないままに、状況は動いていきます。そして経済的な利潤の追求だけが、内的な動因として残るのです。この構図は、景観条例施行前と変わりません。

 町家が残るような地域では、たとえはりぼてであろうと、町家に似せた家をつくる意味があると思います。しかし、ビルやマンションに、屋根を載せたり、庇をつけたり、ルーバーで覆ったりすることに積極的な意味は見出せません。10年後には京都がどんな街になっているのか、逆の意味で楽しみではあります。

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