主語を含んだ動詞
「雨が降る」を世界のいろいろな言語で表現すると、見事なくらい文法的に違う文章になります。
イタリア語では、"piovere"という動詞を三人称単数で使います。ですから、「雨が降る」は、"Piove."です。たったこれだけ。主語はありません。なぜなら、この単語を使ったときには、降るのは雨に決まっているのですから。雪の場合には使う動詞そのものが異なります。
もともとイタリア語では、動作の主体が動詞の活用形からわかるので、たいていは主語が省略されるのですが、"Piove."という表現の場合、そうした省略というよりは、主語が動詞の中に含まれていると考える方が適していると思われます。あるいは主語と動詞がまだ未分化だとも考えられます。もしかしたら、これは言語の原点なのかもしれません。
昔、といっても、どれくらい遡ったらよいかわかりませんが、ある事象に対して、主語も動詞も目的語も全部一緒になったような言葉が対応していたと考えられないでしょうか。たとえば石器時代のような、生活がシンプルな時代はそれで成り立っていたのではないでしょうか。マンモスを狩るのと、ウサギを狩るのとでは、まったく違う言葉を当てていたのかもしれません。そうすれば、たいていの表現は一語で済ますことができます。知らない人には叫び声にしか聞こえなくても、その社会の人同士の間ではコミュニケーションが成り立つはずです。
話を雨に戻します。日本語では、「雨が降る」というように、主語-動詞で表現します。実はこれが曲者で、イタリア語を日本語に訳した瞬間から、本来のイタリア語の持っていた言語の起源とも思われる部分が抜け落ちてしまうのです。
「雨が降る」と「雪が降る」を並べると、「降る」という同一性と、「雨」と「雪」との差異性が浮かびあがります。つまり主語と動詞を分けることで抽象的な思考が可能になるのです。科学というのはここから始まるといっていいでしょう。同一性と差異性を展開していけば、0と1の組合せですべての事象を説明するというところまでいきつくでしょう。ですから、現代文明の発展のためには、言語が分節化されていくことはやはり必要だったのかもしれません。それに、現代社会で英語が好んで使われるのには、こうした理由もあるのかもしれません。
しかし私は、主語と動詞が未分化なイタリア語のような言い方に惹かれます。雨が降るというのは、それが物理の法則であろうと神の意志であろうと関係なく、ひとまずはそういう現象として現れるということです。人間が自然と向き合った瞬間というのは、主語が未分化なままのこうした言葉でしか表現できないのではないでしょうか。
