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2009年12月 アーカイブ

2009年12月29日

『異邦人』

 アルベール・カミュの『異邦人』ですが、初めて全体を通して読んでみて、いままで抱いていたイメージとはまったく違うものが浮かびあがって来ました。

 「不条理」という言葉は、人間の不条理でなく、システムの不条理です。もちろんシステムの不条理は人間の不条理となって現れるわけですが、システムという観点を排除したらこの小説はまったく理解できないと思います。翻訳や書評は、実存主義の学者が担当することが多いのですが、この小説はむしろ構造主義の視点からこそ読まれるべきでしょう。

 人は誰でも言い間違いをします。例えば他のことに気をとられていて、ついつい違う言葉を口にしてしまうということがあります。すぐに訂正すれば問題ないのですが、それができない場合もあります。社会がそうした訂正を認めない場合とか、発言した内容がメディアによって即座に伝達されてしまう場合とか。発言に責任を持つべきだという建前の社会では、不注意から来る言い間違えは原理的にありえないことになっています。前の発言が取り消せないとなれば、後から付け加える発言によって徐々に修正を図りながら結論を導くという方法をとらざるを得ません。そうして得られた結論は、もともと意図されていた内容とは当然ズレを生じます。こうして生じるズレが「不条理」なのです。

 『異邦人』で描かれる裁判は、こうしたシステムの象徴的表現です。出来事や考えたことは、言葉に移し変えられ、言葉の積み重ねが判決を導きます。しかし言葉が積み重ねられていく間に、もともとの出来事や考えは姿を変えていくのです。というより、言葉の集積は、それに適した出来事や考えしか抽出できず、もともとの出来事や考えは、最初からこぼれ落ちてしまうというのが正しいでしょう。「太陽のせいだ」という有名なフレーズがあります。これは殺人の動機が「太陽のせいだ」ということではなく、言葉の集積の中で疎外され、言うべき言葉を失ってしまった主人公には、こういう表現しか残されていなかったということでしょう。言葉を奪われた者の叫びなのです。

 主人公は別に「狂気」に突き動かされているのではありません。ものごとの捉え方や感じ方に他の人と違いがあるとしても、基本的には自分を冷静に見つめることができる人物です。しかしそうした素朴さが、裁判での言葉のやり取りに合わないのです。情状を良くする為に自分を偽るほうが裁判では有利です。しかしそうした偽られた自分に対して下される判決は、当然偽らない自分に対する判決とはズレます。これでは誰に対して判決を下しているのかわかりません。この時点で裁判は真理ではなくなっています。

 裁判では、主人公を知的な人間であるとし、犯行は計画的であったと認定します。その一方で「太陽のせいだ」という理性から逸脱した発言を捉えて、主人公の反社会性を認定します。最近の裁判でも良く見られるレトリックですが、でもこれは判決の方が分裂しているのです。このようにしてシステムの矛盾点が露呈してきます。こうした現代の裁判制度の問題点は、レヴィ=ストロースも『悲しき熱帯』で指摘しています。

 上手く立ち回るためには、システムの方に合わせる必要が出てきます。人間はそれを無意識にやっているのです。自分というのは、常に他者の言葉に合わせざるをえない存在です。自分の言葉を持った「本来の自分」というのは、システムの中では存在し得ないということなのです。ここまでの認識は構造主義です。そしてそうした状況からの脱出をどう図るかという部分で、カミュの実存主義が前面に出てくるのです。

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