『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
村上春樹に対しては、場面設定や登場人物の行動が不自然だとか、心理描写ができていないという批判が為されますが、そうした批判は無意味でしょう。彼の小説は寓話なのです。イソップ寓話同様、登場人物は擬人化されたキツネやカエルであっても一向に構いません。登場人物は、理念を単純化して物語の中に配置したというだけなのです。彼らは自身の内面によって行動するというよりは、あらかじめ決められたストーリーに従って動きます。そうしたストーリーを読ませるのが村上の小説です。
次に為される批判は、登場人物が作者の意図通り動くならば、小説は作者の内面の吐露に過ぎず、閉じた枠から出られないだろうというものです。確かにそうした側面はあります。だから彼の世界に共感できる人と共感できない人とに二分されるのでしょう。ハードボイルド小説を読んでいるような気分を覚えることもあります。しかし、彼の小説の意味はそれだけではないでしょう。自身が創作した登場人物を意図通りに動かしながら、実はそうした意図が破綻する地点を目指しているように思われます。徹底した虚構性に依拠しながら、虚構が破綻する一点に現実を接続しようとしているのです。というよりも、われわれが目にしている現実というものも実は巧妙につくりあげられた虚構かもしれず、それを虚構だと認識したとき初めて、別の世界の存在とに気づくという構成なのです。彼の小説の意味は、ですからそこに書かれていないものにあります。それが寓話というものです。
「終りの世界」と「ハードボイルド・ワンダーランド」というふたつの世界が設定されます。それぞれで起こる出来事が、互いに無関係であるかのように交互に描写されていきます。ふたつの世界の地理的な関係や時間的な関係はわかりません。しかし読み進むうちに、ふたつの世界が実は同じもので、別のフィルターを掛けることで別の世界に見えているだけだろうとか、ふたつの世界は裏と表の関係ではないだろうかとか、そうした想像が膨らんでいきます。
ふたつの世界の関係をどう図式化するか、そこにこの小説の一切が懸かっています。「終りの世界」は、争いや不安のない安定した世界です。しかしそこには何かが欠けています。その欠けているものとは、情動(小説の中では「心」と呼ばれています)です。情動を捨て去ることと引き換えに、人々は平和と日々の満足を得るのです。しかし登場人物は、そうした世界ではない世界を希求します。人間が情動を持った世界を。「ハードボイルド・ワンダーランド」はその裏返された世界です。人々は自分の欲望に従って行動します。現代社会の写しです。ここで欠けているものは、本質です。深層心理とかアイデンティティーと言い換えることもできます。日々の生活の中で見失っている本当の自分。
どちらの世界においても、登場人物は自分探しの旅をしているわけです。ふたつの世界は、一方が欠いているものを他方が持っているという関係にあります。どちらが優位というのではありません。だから一方が他方に包含される関係ではありえません。
今ある世界に欠けているものを追い求めるだけならば、それにはいろいろな方法があります。イデオロギーと呼ばれるものがそうだし、宗教もそうです。その世界に欠けているものとは、結局はその世界の原理や創造者ということになります。たいていの小説は、そうした結論に行き着くわけです。
村上はそうした結論を否定したいのだと思います。ふたつの世界が相互に依存しあっている図式においては、お互いが根拠にしているものが無限に往復し合い、根拠は意味を失います。自分探しの無意味性。意味を与える超越した存在などあり得ないと認識すること、それが新たな出発点となります。こうした認識は、共同幻想ではなく、対幻想ということになるでしょう。
