« 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 | メイン | 『罪と罰』 »

『きらきらひかる』

 江國香織の小説である。ここ数日の間、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいるのだが、なかなかページが進んでいかない。そこで、傾向の違う小説を間にはさんで、気分を変えようと考えたのだ。

 夫を主語にした章と妻を主語とした章とが交互に繰り返されながら、物語は進行する。この語りの形式はどこかで見たことがある。『冷静と情熱のあいだ』だ。しかし『冷静と情熱のあいだ』は、主人公の男の視点を辻仁成が、女の視点を江國香織が担当していたから、男と女の視点がもともと異なるという前提があったし、それが物語の信憑性を担保していたと言えるだろう。『きらきらひかる』は、ひとり芝居である。男と女の視点を使い分けながらも、結局は江國の想像力の範囲内に物語はとどまる。

 似ているのはむしろ、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』かもしれない。作者の想像力によって構築された人工的な世界。そこでは、日常生活からの類推などは役に立たない。登場人物の行動が作者によって制御されているとすれば、結末は予定調和なのだし、そこにリアルな男と女の視点が現れるはずもない。われわれは、そこに書かれたことではなく、書かれなかったことを読み取らなければならない。作者が意図的に書かなかったこと、書こうにも書きようもないこと、そうした影の部分を浮かび上がらせることこそが、アルチュセール的な「読む」という行為なのだ。

 では、その書かれなかった部分とは何なのか。物語の進行上不可欠にも関わらず、そこに欠けているもの。それは、主人公の睦月と笑子の出会いから結婚までのプロセスである。たしかに見合いの場面は回想という形で描かれている。しかしそこから結婚にいたる心理の描写はなく、もともと二人が結婚しているという前提から物語は始まる。二人がなぜ惹かれあうのかがテーマだというのに、その始原は描かれない。物語は、始まりを持たないトートロジーなのだ。円環をずっと繰り返すだけである。物語は、始まったときには、すでに終わっている。この小説の本当のテーマは、この書かれなかった始原である。闇の中での飛躍としか言いようのないもの。

 物語は、始まったときにはすでに抜け殻になっている。同性愛者の睦月と情緒不安定でアルコール依存の笑子。睦月には同性愛の恋人・紺がいる。セックスは睦月と紺との間にはあり、睦月と笑子の間にはない。こうした関係は三人の間で了解済みである。これは、睦月と笑子との間のセックスを離れたプラトニックな愛を取り出すための舞台設定なのだ。さらに、紺が睦月の「影」であり、人間の完全さは「影」に支えられているという解釈を付加することも可能だろう。だがこれだけでは、単なるきれいごとに過ぎない。ではわれわれの現実と、この物語とはどう結びつくのか。

 三人は、睦月を間にはさんで一直線上に並ぶ。プラスとマイナスとが引き合うとすれば、睦月をプラスにした場合、「マイナス-プラス-マイナス」という配列になる。マイナス同士は引き合わないから、この直線はひとつの完結した形のように見える。しかし、物語が進行するうちに、この直線はそのままではいられなくなる。笑子と紺との間に感情が芽生えるのだ。それはお互いの睦月との関係を維持するために手を結ぶというような関係である。これを友情と呼ぶのかもしれない。こうして両端のマイナスとマイナスとがつながり、円環ができる。三人の関係はこうして完結し、他からの介入を許さないものとなる。この小説は、閉じないはずの円環が閉じるというモデルなのだ。紫色と赤色は、分光分布では直線の両端に位置するのだが、それがつながって隣り合わせになると、マンセル色相環ができる。それとまったく同じ関係である。

 円環として完成してしまえば、それがつながる前の状態を思い浮かべることは難しい。しかし、確かにそれがあったはずなのだ。円環が閉じる直前のリアリティーを、われわれは閉じた円環の中にいながら想像しなければならない。閉じないはずの円環が閉じるという論理をさらに遡って適用してみよう。この物語が始まる以前の睦月と笑子との出会いについて。そこには、作者ですら決められない深淵と飛躍があるはずなのだ。出会うところまでは周囲がお膳立てしたものであったとしても、そこから先は何も導くものはない。結局暗闇の中での飛躍しかありえない。それ以前とそれ以後は不連続なのである。結局恋愛を支える根拠など何もない。

 江國香織の小説を読んでいて感じる刹那さのようなものは、この根拠のなさにあるのだろう。一見幸せそうな会話や生活も、一歩足を踏み外せば、根拠のなさという闇に沈んでしまう。今隣にいる人がこの人でなければならないという必然性もないし、その人は次の瞬間には自分から遠ざかっていくのかもしれない。出会いが不連続点であったということは、現在の関係が過去からの積み上げではないということを意味しているのである。

 白雪姫等の童話は、徐々に関係を積み上げつつ、結婚というゴールに向う。そのプロセスが劇的であることによって、ゴールした後の幸せが永遠に続くことが示唆される。しかし江國の小説ではこの関係が逆転していて、結婚がスタートになる。スタート以前に何かがあったことは確かだが、それは語ることができない。物語は常に、根拠づける過去を失った現在進行形である。何が正しいのかわからないまま、手探りで進んでいく。それは登場人物も作者も同じことである。そこに彼女の小説のリアリティーがある。

About

2010年01月17日 09:08に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』」です。

次の投稿は「『罪と罰』」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。