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『罪と罰』

 自分でコンプレックスを持っていることや自分の秘密を他人に指摘されるとき、たいていの人は不愉快な思いをするでしょう。隠しておきたい自分と見せたい自分とを区別し、見せたい自分だけで社会に適応しようとしているからです。

 しかし自分の両面、つまり隠したい部分と見せたい部分とを区分けできるということは、まだその人は自分を客観的に見る冷静さを持ち合わせているということです。ですから、隠したい部分を他人に指摘された場合でも、一時不愉快な思いはするでしょうが、そうした指摘を取り入れて新たな自分をつくりあげ、自分をいわば進歩させることも可能になります。つまり意識されていれば、問題の解決も可能になるということです。

 やっかいなのは、隠しておきたい自分が自分でも意識できていない場合です。これはその人が裏表のない人間であることを意味しません。無意識の内に隠された部分があるわけです。それを他人に指摘されると、過剰な防衛反応を引き起こします。意識されてはいないけれども、どこかに「引っかかり」はあるのです。それが刺激されると、本人に意識されていない分余計にいらだちを引き起こします。

 ラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイが火花を散らす場面というのは、結局はこういうことでしょう。もちろんラスコーリニコフには自分の罪という隠したいものがあります。でもその指摘が、意識された部分だけでなく、それを超えた無意識の部分にまで浸透してくるというところに、核心があります。個別の罪ではなく、人はなぜ生きるのかという原罪の部分にまで食い込んでくるのです。それがラスコーリニコフの錯乱を引き起こしたのだと思います。通常ならば、個別の罪の告白で済む話が、自分の意思を至上のものとするラスコーリニコフにとっては、内面の崩壊にまでつながることになるわけです。

 ラスコーリニコフとポルフィーリイのやり取りは、精神分析と言っていいと思います。ポルフィーリイは、証拠を握っているわけではありません。彼は仮説を立てているに過ぎません。しかし、それがラスコーリニコフに及ぼした効果を確認することで、その仮説の正しさをポルフィーリイは確信するのです。 精神分析というのは、本人が抑圧してしまった部分を、再構成して本人に提示し、本人がそれに気づくことで自己治癒を促すというものです。でも本人はそれを認めたくないので、精神分析医に反発したり迎合したりと、激しい抵抗を試みます。つまりラスコーリニコフの抵抗の強さは、ポルフィーリイの指摘が核心を突いていることの証明なのです。

 ソーニャとの関係ももちろん重要なモチーフですが、やっぱりポルフィーリイとの対峙がなかったら、この物語は成り立たないと思います。『罪と罰』は、自己中心的な妄想が、近代的な自我へと組みかえられていく過程としても読めるでしょう。誰しもが自分の隠したい部分というのを抱えているはずです。でも少なくともそれを意識化することで、社会との折り合いをつけていくことが可能になるのではないでしょうか。

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2010年02月28日 12:41に投稿されたエントリーのページです。

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