« 『罪と罰』 | メイン | 『プレイバック』 »

『カティンの森』

 1月に京都シネマで見たアンジェイ・ワイダ監督の映画だ。

 軍隊内で命令に従わざるを得ない状況、国家の独立を守るという大義、自己保身、名誉欲などに対抗して、人間の良心がどこまで耐えられるのかをこの映画は問いかける。

 しかし問題はそれほど単純ではない。人間の良心すらも、こうした状況に左右されるからだ。それが正しくないと知りつつ行動する人もいれば、それが正しいと信じて行動する人もいる。正しいという確信は、政治的な主義や国家の大義から来るのかもしれないし、それを疑う自分というのも、結局は別の主義や大義に軸足を置いているのかもしれない。

 カティンの森虐殺事件の真相を暴くこと、それは良心にかなった行為であるけれども、それはまた別の政治性を帯びてきて、新たに別の抑圧を生み出すかもしれない。すべてが円環のようにつながっている。これがカミュのいう「不条理」でなくてなんなのか。

 事件を告発する視点は、イデオロギーや国家ではもちろんない。それは個人に求められなければならない。しかも、たとえ作業仮説としてであれ、その個人は集団から切り離された個人でなければならない。集団から引き離された個人は、あまりにも無力だ。しかし、孤立した無力な個人の位置にとどまることによってしか、この事件の解明はできないのではないか。

 この映画を見て思い出したのは、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』である。舞台が同時代のポーランドであることも共通している。複雑に入り組んだ関係を整理するためには、視点の設定を必要とする。すべてを平等に見通せる純粋な視点の設定が可能かどうかというのが、小説のテーマだったと思う。主人公のオスカルは、大人の世界に染まることを拒否して、成長を止めてしまった。純粋な子供の目から見た大人の世界の醜悪さが描かれていく。大人の世界とは、ポーランドを巡る政治的な関係と読み替えることができる。

 しかし、そうした純粋な視点などというものはあり得ない。無邪気なオスカルは、天使であると同時に悪魔でもあるかのようだ。状況によっては、純粋さが人を傷つけることもあるのだ。「本当の自分」とか「純粋な良心」といったものを求めること自体に、すでに罠が仕組まれているのかもしれない。だとすれば、良心とは、完全な純粋さではなく、あるどこか一点で踏みとどまることではないだろうか。

About

2010年03月28日 13:30に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「『罪と罰』」です。

次の投稿は「『プレイバック』」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。