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2010年05月 アーカイブ

2010年05月06日

悪人往生とは

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 日本に入ってきた仏教は大乗仏教で、一般大衆を救いの対象としていましたが、それでも各人が悟りを開くためにはそれ相応の修行が必要でした。

 仏教の歴史の上で革命的といえるのは、やはり浄土教の誕生でしょう。念仏を唱えさえすれば、身分や財産や日頃の行状に関係なく、人は誰でも浄土に行けると法然や親鸞は説きました。救いを得るためには、善人であるか悪人であるかすら関係ありません。これで一気に仏教の裾野が広がっていきました。

 修行をして悟りを開くというとき、内面と外面は一致しています。他人がその人を見た場合もそうですし、本人にとってもそうです。善い考えは善い行動となって現れるはずなのです。宗教というのはたいていそうした内面と外面の一致を求めます。極端なのはキリスト教で、姦淫の気持ちを持っただけで、その人は姦淫を犯したのと同じだとまで言うわけです。

 これに対して浄土教は、内面と外面を分離します。内面はたとえ悪人であってもいいのです。そんなものは他人にはわかるはずのないものだからです。ただ外面で念仏さえ唱えれば、つまり外面さえ装えば、それでいいのです。

 これを偽善と見る考え方もあるでしょう。しかし内面と外面を分離することによって、はじめて内省というものが生まれるのです。外面は社会の規律に合わせる必要があっても、内面ではそれとは異なることを構想できる、これが近代的な個人です。悪人往生でいう悪人とは、近代的な個人のことです。救いは外部から与えられるものではなく、無限に内省を深めざるを得ないこの構造こそが「救い」と言えるでしょう。


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 「神の見えざる手」に導かれるように、市場を通じて物やサービスの最適な分配が実現されるとアダム・スミスは説きました。「神の見えざる手」を、数学を使ってもっとも美しい形にまとめたものが、ワルラスの一般均衡理論です。

 消費者や生産者といった経済主体が自分の利益を最大にするように行動すれば、社会全体にとっても最適な分配が、市場を通じて自動的に決まるというものです。最適な分配状態が均衡です。均衡を外れた状態がもしあるとすれば、市場の力によってただちに均衡に引き戻されます。そこでは均衡が正常な状態です。不均衡が是正されるのに時間は必要とされません。というより、不均衡とはあくまで仮想的なもので、見かけの上では均衡が永遠に続くのです。

 永遠に続く均衡という言葉は、天国、涅槃、浄土、悟りといった宗教の理想を思い起こさせます。争いや葛藤を超越したとき、そこでは時間がなくなるのです。それが永遠です。アダム・スミスが「神の見えざる手」という例えを使ったのは偶然ではないでしょう。経済学の理論は天国をモデルにしているのです。資本主義の発展の背景にプロテスタンティズムがあると、マックス・ウェーバーは述べました。しかしそれはプロテスタントの勤勉な道徳のせいではありません。彼らが認識した市場経済の仕組みが、宗教の構造と相似形だからです。だから今日グローバリズムとして見られるように、あたかも宗教を広めるかのように、世界の隅々まで市場経済を拡張しようとするのです。

 一般均衡理論に戻ります。各経済主体は、誰からも強制されることなく、自分の意思で自分の利益を最大にするように行動します。各人の自由な行動が、社会全体にとっても最適であることが理論的に保証されるわけです。しかしこの理論では、人類が市場経済にどうやって至ったのかや、市場経済に限界があるかどうかは説明できません。閉ざされた体系なのです。各人はその体系の中で自由を与えられているにすぎないのですが、あたかも自分たちの自由が世界を決定しているかのように信じます。結局はトートロジーの世界なのです。

 宗教も同じ構造を取ります。とりわけプロテスタンティズムにおいてそうです。信仰は各人に内面化されています。内面化されているということは、救いはすでにその人の中にあるということです。自分が救われるべき集団に入っているとき、救われるべきでない人など目に入らないでしょう。天国という理想の世界に人はひきつけられて当たり前だと考えるわけですから、それを信じない人の存在は、信仰をもった人にとってはあり得ないのです。

 宗教はどれも理想の世界を提示しますが、人がどうやって信仰を受け入れたり、それから離脱するのかを説明できません。これが宗教の最大のパラドクスです。このギャップを乗り越えるために捏造されるのが、「奇跡」と呼ばれる事象です。でも信じない人にとっては何の意味もありません。

 仏教において、修行や念仏によって、人は涅槃や浄土という理想の世界に至るとされます。その理想の世界は精緻に理論化されています。しかし、その理想に至るプロセス、つまり人がなぜ信仰を受け入れるかの説明は、その理論の中にはないのです。このパラドクスに気づいたのが、法然や親鸞だと思います。「悪人往生」における悪人とは、教化が遅れた人ではありません。信仰というトートロジーの外にいる人、信仰を持った人の目には映らない人なのです。もちろんその人たちが救われるように、代わりに祈ってあげましょうということではありません。悪人こそが往生するというのは、文字通り信仰を持たないことが信仰だということです。宗教のパラドクスを簡潔に言い表しているのです。法然や親鸞の思想が、実在の教団にどれだけ引き継がれているのかは知りませんが、宗教史において根底的な意味を持つのはこのふたりだと言って間違いないと思います。

 信仰を持たないことが信仰であるとは、同一平面上では成立しません。両立させるには、内面と外面の分離を必要とします。信仰を装った不信仰なのか、不信仰を装った信仰なのかは問いませんが、いずれにせよ2つのレベルを設定することが必要になるのです。従来、マックス・ウェーバー的な個人、あるいは一般均衡論でいう経済主体が、近代的な個人と見做されてきました。しかしそれに代わって、内面と外面に分裂した自己の方こそ、近代的な個人と呼ばれるべきだと思います。そして各理論もそちらに組み替えていく必要があります。

2010年05月26日

養老天命反転地

 荒川修作が5月19日に亡くなった。荒川とマドリン・ギンズの共作による「養老天命反転地」は、出来たばかりの頃に見に行った。養老の滝で有名な、岐阜県養老町にある。1995年の完成だから、もう15年も前のことになる。

 水平でない床、傾いた壁、いびつな開口部。それまで建築で常識とされてきたことに、あえて異を唱えているかのような施設である。常識と違う形態を、ただ見るだけでなく、実際に中に入り、歩き回って体験することで、人間はそれまでとは違う新しい認識を手に入れる、と作者は言う。

 だが、実際にその場所に立ってみて感じたのは、形が常識的でないことによる違和感よりも、むしろ素材に対する違和感だった。写真やスケッチで見るかぎり、卓越するのは形の奇抜さである。しかし、実際にそこに立ってみれば、奇抜さは奇抜さとして意識されるにせよ、はっきり言えばたいしたことがない。それよりも、形態を成り立たせているコンクリートという素材とそれらの形態との間に生じた違和感の方が印象的なのだ。

 コンクリートという素材は、硬いので、ぶつかれば怪我もする。そうした素材が選ばれたのはなぜなのか。体験型の施設ということならば、実際手で触ったり、その上で転んだりもするだろう。その時の印象は、ざらざらした感じ、冷たい感じ、転んだときの痛みとかであろう。それらの印象は、形とはあまり関係ないのではないか。確かにこうした自由な形をつくれる材料はコンクリートしかない。しかしコンクリートでつくられたとき、素材が形以上に主張を始めてしまう。ある意味饒舌な材料であり、ある意味貧しい材料でもある。

 作者は、形と素材との関係をどう考えていたのだろうか。素材を消し去って、純粋に形と色彩の世界を思い描いていたのか。スケッチの段階ではそれもありえる。だが作者は、それが身体によって体験されるべきものになることを願い、実際にそれをつくった。視覚よりも、むしろ触覚を優先させたのだ。ここに矛盾が生じる。

 実際には新しい認識など生まれはしない。この施設のコンクリートの床で転んだときの痛みは、ありふれた普通の建物の床で転んだときの痛みと違いはない。別に転んだときに危険だからという理由で批判しているわけではない。痛みに限らずとも、触感や温度感がここではありきたりなのだ。

 「養老天命反転地」は空想の産物である。そして空想である限りにおいて存在意義がある。実現してしまえば、そこからは何の新しい認識も生まれない。結局判断基準は、視覚のレベルに引き戻されるのだ。

 問い方を変える必要があるだろう。なぜそうしたものを実現したいのか。空想のままでとどまっているときが一番美しいのに。確かな形として、永続するものとして表現したいのかもしれない。それは表現者の宿命なのか。それとも、こうした迂回を経ることによってしか、形態の理念は表現され得ないということなのか。実際につくられるものは、こうした理念を浮かび上がらせるための仮設の装置なのかもしれない。

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