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養老天命反転地

 荒川修作が5月19日に亡くなった。荒川とマドリン・ギンズの共作による「養老天命反転地」は、出来たばかりの頃に見に行った。養老の滝で有名な、岐阜県養老町にある。1995年の完成だから、もう15年も前のことになる。

 水平でない床、傾いた壁、いびつな開口部。それまで建築で常識とされてきたことに、あえて異を唱えているかのような施設である。常識と違う形態を、ただ見るだけでなく、実際に中に入り、歩き回って体験することで、人間はそれまでとは違う新しい認識を手に入れる、と作者は言う。

 だが、実際にその場所に立ってみて感じたのは、形が常識的でないことによる違和感よりも、むしろ素材に対する違和感だった。写真やスケッチで見るかぎり、卓越するのは形の奇抜さである。しかし、実際にそこに立ってみれば、奇抜さは奇抜さとして意識されるにせよ、はっきり言えばたいしたことがない。それよりも、形態を成り立たせているコンクリートという素材とそれらの形態との間に生じた違和感の方が印象的なのだ。

 コンクリートという素材は、硬いので、ぶつかれば怪我もする。そうした素材が選ばれたのはなぜなのか。体験型の施設ということならば、実際手で触ったり、その上で転んだりもするだろう。その時の印象は、ざらざらした感じ、冷たい感じ、転んだときの痛みとかであろう。それらの印象は、形とはあまり関係ないのではないか。確かにこうした自由な形をつくれる材料はコンクリートしかない。しかしコンクリートでつくられたとき、素材が形以上に主張を始めてしまう。ある意味饒舌な材料であり、ある意味貧しい材料でもある。

 作者は、形と素材との関係をどう考えていたのだろうか。素材を消し去って、純粋に形と色彩の世界を思い描いていたのか。スケッチの段階ではそれもありえる。だが作者は、それが身体によって体験されるべきものになることを願い、実際にそれをつくった。視覚よりも、むしろ触覚を優先させたのだ。ここに矛盾が生じる。

 実際には新しい認識など生まれはしない。この施設のコンクリートの床で転んだときの痛みは、ありふれた普通の建物の床で転んだときの痛みと違いはない。別に転んだときに危険だからという理由で批判しているわけではない。痛みに限らずとも、触感や温度感がここではありきたりなのだ。

 「養老天命反転地」は空想の産物である。そして空想である限りにおいて存在意義がある。実現してしまえば、そこからは何の新しい認識も生まれない。結局判断基準は、視覚のレベルに引き戻されるのだ。

 問い方を変える必要があるだろう。なぜそうしたものを実現したいのか。空想のままでとどまっているときが一番美しいのに。確かな形として、永続するものとして表現したいのかもしれない。それは表現者の宿命なのか。それとも、こうした迂回を経ることによってしか、形態の理念は表現され得ないということなのか。実際につくられるものは、こうした理念を浮かび上がらせるための仮設の装置なのかもしれない。

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2010年05月26日 20:17に投稿されたエントリーのページです。

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