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2010年06月 アーカイブ

2010年06月05日

近江八幡紀行

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 近江八幡駅前での用件を済ませると、「ぶーめらん通り」と名づけられた駅前通りを私は西に向かって歩き始めた。暑さを予想して夏用のジャケットにしてきたのだが、それでも汗ばむほどの天候だ。

 20分ほど歩くと旧市街に着く。2年ぶりだ。その時の記憶を頼りに、ヴォーリズが関わった建物や、近江商人の町家をいくつか見てまわる。

 旧市街といっても、歴史的な建築物がそれほど多く残っているわけではない。点在しているというのが実状だろう。町家が街並みとして残っている地域はさらに限定される。

 それでも、町としての統一性をかろうじて保っているのは、道路による区画のためだろう。さらに付け加えるならば、かつて下水道として使われていた水路が、建物の間を流れていることだろうか。この水路は八幡堀に注ぎ込む。道路と水路とで構成されるグリッドは、自動車交通のために拡幅された道路を除けば、近江八幡という町が出来たころに遡ることができるだろう。豊臣秀次がこの町を整備したとされる。

 注目すべきは、道路の幅である。当時の交通手段は徒歩が主で、せいぜい馬が通ることがあっただけだ。馬にしても、走って通れるほどの幅ではない。道路に面する建物の表情は、この道路幅が必然的につくりだしたもののように思える。通行人相手に商売をするには、門や庭を介してではなく、直接建物が道路に面する必要があるのだ。道路幅がこれより広くても狭くても、両側の建物とのバランスは崩れてしまうだろう。

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 拡幅された道路もあるが、幹線通りから奥まった道路は以前のままの幅である。しかし、それらの両側の建物は、たいていは建替えられてしまっている。それはもちろん仕方ないことではあるのだが、見ていると、新しい建物でも町になじんでいるものもある。それはおそらく、道路幅を意識した建て方をしているからだ。現代の生活には自動車は欠かせない。だが、家と道路の間を駐車スペースにしたりすると、たちまち街並みは崩れる。また、郊外型の建て方で、道路と家の間を庭にした場合にも、違和感が生まれる。こうした違和感をもたらすこと自体が、道路幅の持つ力の大きさを示している。建替えられてしまった建物に違和感を感じられる間は、われわれの心の中に近江八幡の町が息づいているのだ。

 この町で支配的なのは、道路のグリッドと、道路の幅である。現代的な基準からすれば、使いにくい道路であり、利便性からすれば住みにくい家しか建てられないのかもしれない。だがこの道路幅が維持されるなら、近江八幡らしさも残るような気がする。反対に、たとえ歴史的な建物を保存しようとも、道路幅に手をつけた時点で、この町の歴史は終わるのではないか。

2010年06月26日

『告白』

 映画『告白』を見た。湊かなえの原作を中島哲也が映画化している。

 少年法への問題提起と捉えることには意味がないだろう。主人公の少年が、幼少期の精神的な傷を引きずっているという解釈にも意味がないだろう。

 おそらく作者には、ここで提起されているかに見える問題に答えを出そうという意図はなかっただろう。では何が作者にこのストーリーを書かせたのか。ある条件の組み合わせがもたらすストーリーの自律的な進行が、彼女の関心だったような気がする。少年法は、そうした条件のひとつに過ぎない。だからここで少年法の是非を問題にしても仕方ない。少年法は、ある種のダブルバインド状況をつくりだすための道具立てである。HIVや熱血教師や過去の猟奇的事件も、そうした道具立てである。いくつかの条件が互いに規制しあい、軋轢を起こし、思わぬ効果を生む。作者は、そうした条件がつくりだす世界を、善悪の判断を保留したまま記述するのだ。善悪の判断を保留することによって、これまでの常識的な物語はあっさりと飛び越えられてしまった。

 それぞれの条件は、手術台の上でこうもり傘とミシンが出会ったときのように反発しあい、思いもかけぬ方向に弾き飛ばされる。自動筆記のように、与えられた条件からの演繹で物語は進行するのだが、その行き先は作者でさえも知らない。

 与えられた条件に登場人物はなんらかの反応を示すわけだが、しかしその条件がダブルバインドになっている場合、反応には跳躍が伴う。つまり反応を正当化する根拠はさしあたって見当たらない。反応が一通り出揃った後で初めて、その意味を反省することが可能になるが、その時にはすでに手遅れと言っていい。例えば、少年AとBを断罪することの正当性。クラスメイトが少年Bに送った寄せ書きには、表向きとは正反対のメッセージが込められていた。行き場を失った正義感がこうした裏のメッセージとして現れたという解釈はできるかもしれないが、そうすることが正しいとは誰も言うことができない。人間の反応は、どちらでもあり得る。それは少年AやB、復讐する女教師についてもあてはまる。

 自動筆記によって書かれたような物語でありながら、われわれは不思議とこの物語に引きつけられる。それは、登場人物のそれぞれに少しずつ感情移入できる余地を残しているからではないだろうか。娘を殺された女教師はもちろんだが、少年Aや少年Bにもどこかで自分を投影させてしまうような経験は誰もが持っているはずだ。つまり虚栄心や優越感、孤独を恐れる気持ち、愛されたいという欲求は、程度の差はあっても誰もが持っているはずだ。いじめはいけないと知りつつも、素朴な正義感がいじめのような行動として現れてしまうことにも、どこかで共感できるものがある。悪と知りつつ惹きつけられることとかもそうだ。

 こうして、観客は登場人物に感情移入していく。もちろん同時にすべての登場人物に感情移入することは不可能なので、その場面ごとということになるが。そうして結局矛盾した内容がすべて観客の心の中に入ってくることになる。だから何が正しいか決められないし、結論を引き出すことは不可能だということになる。さらにいえば、われわれが少年AやBのようにならないとは、誰も断言できないということだ。たまたまそうでないのは、何かの偶然でしかないのかも知れない。

 贖罪がテーマということであれば、ドストエフスキーの『罪と罰』が思い出される。『罪と罰』では、ラスコーリニコフは善意に囲まれていた。善意を前提することで、ドストエフスキーは、あらかじめ答えを用意していた。しかしこの映画では、少年AとBを取り囲むのは悪意だけである。こうした状況の放り込まれてなお、人は贖罪を語りえるのか。『告白』は、本当の意味での『罪と罰』である。

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