映画『告白』を見た。湊かなえの原作を中島哲也が映画化している。
少年法への問題提起と捉えることには意味がないだろう。主人公の少年が、幼少期の精神的な傷を引きずっているという解釈にも意味がないだろう。
おそらく作者には、ここで提起されているかに見える問題に答えを出そうという意図はなかっただろう。では何が作者にこのストーリーを書かせたのか。ある条件の組み合わせがもたらすストーリーの自律的な進行が、彼女の関心だったような気がする。少年法は、そうした条件のひとつに過ぎない。だからここで少年法の是非を問題にしても仕方ない。少年法は、ある種のダブルバインド状況をつくりだすための道具立てである。HIVや熱血教師や過去の猟奇的事件も、そうした道具立てである。いくつかの条件が互いに規制しあい、軋轢を起こし、思わぬ効果を生む。作者は、そうした条件がつくりだす世界を、善悪の判断を保留したまま記述するのだ。善悪の判断を保留することによって、これまでの常識的な物語はあっさりと飛び越えられてしまった。
それぞれの条件は、手術台の上でこうもり傘とミシンが出会ったときのように反発しあい、思いもかけぬ方向に弾き飛ばされる。自動筆記のように、与えられた条件からの演繹で物語は進行するのだが、その行き先は作者でさえも知らない。
与えられた条件に登場人物はなんらかの反応を示すわけだが、しかしその条件がダブルバインドになっている場合、反応には跳躍が伴う。つまり反応を正当化する根拠はさしあたって見当たらない。反応が一通り出揃った後で初めて、その意味を反省することが可能になるが、その時にはすでに手遅れと言っていい。例えば、少年AとBを断罪することの正当性。クラスメイトが少年Bに送った寄せ書きには、表向きとは正反対のメッセージが込められていた。行き場を失った正義感がこうした裏のメッセージとして現れたという解釈はできるかもしれないが、そうすることが正しいとは誰も言うことができない。人間の反応は、どちらでもあり得る。それは少年AやB、復讐する女教師についてもあてはまる。
自動筆記によって書かれたような物語でありながら、われわれは不思議とこの物語に引きつけられる。それは、登場人物のそれぞれに少しずつ感情移入できる余地を残しているからではないだろうか。娘を殺された女教師はもちろんだが、少年Aや少年Bにもどこかで自分を投影させてしまうような経験は誰もが持っているはずだ。つまり虚栄心や優越感、孤独を恐れる気持ち、愛されたいという欲求は、程度の差はあっても誰もが持っているはずだ。いじめはいけないと知りつつも、素朴な正義感がいじめのような行動として現れてしまうことにも、どこかで共感できるものがある。悪と知りつつ惹きつけられることとかもそうだ。
こうして、観客は登場人物に感情移入していく。もちろん同時にすべての登場人物に感情移入することは不可能なので、その場面ごとということになるが。そうして結局矛盾した内容がすべて観客の心の中に入ってくることになる。だから何が正しいか決められないし、結論を引き出すことは不可能だということになる。さらにいえば、われわれが少年AやBのようにならないとは、誰も断言できないということだ。たまたまそうでないのは、何かの偶然でしかないのかも知れない。
贖罪がテーマということであれば、ドストエフスキーの『罪と罰』が思い出される。『罪と罰』では、ラスコーリニコフは善意に囲まれていた。善意を前提することで、ドストエフスキーは、あらかじめ答えを用意していた。しかしこの映画では、少年AとBを取り囲むのは悪意だけである。こうした状況の放り込まれてなお、人は贖罪を語りえるのか。『告白』は、本当の意味での『罪と罰』である。
