江國香織の小説には時間の進行がない。ひたすら現在だけがある。過去のエピソードといえば、現在から類推可能な範囲のものだけ。未来は、現在の単純な延長であることがあきらかだ。変化や成長といった言葉が入り込む余地はない。
そして、彼女の小説には、嫌なものが登場しない。最初はちょっと嫌に見えるエピソードも、実際にはたいしたことがないというのがすぐにわかる。
だから物語は、進行しているようでいて、進行していない。登場人物たちにとって心地よいものをひたすら羅列していく。料理やケーキをつくる場面がよく出てくるが、物語全体が、まるでそうした料理やケーキのようだ。わざわざバランスを崩すような材料を選ぶ人はいない。彼女が選んだ材料でつくられた彼女だけの世界。
例えば『流しのしたの骨』。予定調和のように仲の良い6人家族の物語。不幸な人間が一人も出て来ないのは、誰も不幸にしないと彼女が決めたからだ。家族の物語でありながら、家族の起源は描かれない。つまり両親がどうやって出会い、どういう過程を経て今に至るのかは明かされない。そして、子供たちはそろそろ独立する年齢であるにもかかわらず、両親を離れて新しい家族をつくる指向性を持たない。つまりこの家族は、種族の再生産を行なう単位という意味での家族ではない。父は父の役割を、母は母の役割を、娘や息子は子供としての役割を、それぞれ完璧に演じているが、誰も行動の根拠を持たない。家族が社会的な再生産から切り離されたら、父や母であるという意識、子供であるという意識を与えるものがなくなるはずだからである。だからこれは、家族の物語であって、実は家族の物語ではない。
こうして、物語は奇妙な浮遊感を獲得する。登場人物は、生まれたときから現在のような性格や性癖を持っているかのようである。自分がどこから来てどこに向うのかにはまるで無頓着である。自分のアイデンティティーを支える根拠がなくても生きていけるかのようである。自分探しの物語とは正反対。社会のある程度の豊かさが、こうした登場人物のあり方の根拠になっているのかもしれないが、作者は意図的に社会との接点を切り離そうとしているように見える。そして社会との最期の接点である家族までも括弧に入れて棚上げしているように見える。
生産関係が意識を規定するという近代的知の枠組みに対する批判として、江國香織の小説を読むことは可能かもしれない。家族という擬制を採っていても、登場人物の間になりたつ関係は家族ではない。各人は、実は放り出された自由な個人なのだ。
しかし、そうして得た自由の行き先はどこにも示されていない。生産関係を括弧に入れるということは、現実逃避と裏腹である。つまり都合の悪いことを忘れてしまうだけで終わるのかもしれない。それが新しい可能性を開くのか、それとも単なる現実逃避なのか、むしろその選択を彼女の小説は問いかけているのではないか。
