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『ロトチェンコ+ステパーノワ展』

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 滋賀県立近代美術館で開催されている『ロトチェンコ+ステパーノワ ロシア構成主義のまなざし』を見に行った。

 ロシア構成主義を語るとき、政治の話を抜きにすることはできない。ロシア革命は政治の革命だけではなく、生活の革命であり、芸術の革命でもあったからだ。それらがすべて一体になってこそ意義がある。芸術運動に触れないロシア革命史が本質を見失うように、政治から切り離された芸術もまた本質を見失う。スターリンによる革命の収束は、むしろ政治と芸術を分離するものであり、芸術を政治に隷属させるものだった。

 しかしこの展覧会では、ロシア構成主義がたどった政治的な運命にはほとんど言及がない。社会的な背景の説明も最小限で、絵画やグラフィック、彫刻等の視覚芸術をひたすら展示しているという感じだ。

 ここではロトチェンコに絞って話を進めるが、具象絵画から抽象絵画への変遷には興味をそそられる。三次元を二次元に定着するという暗黙の前提が絵画にはあった。19世紀までの絵画では、写実によってそれを行なっていた。現実と画面との間には、対象と記号という関係がなりたつ。絵画に表現されたリアリティーは、画面を越えて現実に再び復元されるべきものであった。19世紀末から、さまざまな表現上の実験が行なわれる。写実ではなく、単純化した形で表現したり、象徴的な別のものに置き換えたり、色を別の色で置き換えたり。しかし、対象と記号という関係は相変わらず保持されたままである。

 ロトチェンコの絵にもそうした変遷をたどることができる。そしてある時点で彼は、特定の対象を描写するのではなく、定規とコンパスで作図できる図形の組み合わせに行き着く。一見、対象と記号との関係は解消されたかのようだが、実はそうではない。画面に描かれた斜めの線は、動きの表現だったり、奥行の表現だったりする。特定の対象との結びつきは断ち切れたのかもしれないが、現実世界との関係はまだ保持されたままだ。抽象的になったとは言え、まだまだ絵画は記号なのだ。

 次の段階で、画面は記号であることを止める。マレーヴィッチが行き着いたのと同じ境地にロトチェンコもまた到達する。すなわち絵の具が塗られただけのキャンバス。それまでは、絵画は現実を描写するための記号であった。どんなに記号に工夫を凝らしても、表現する対象はキャンバス上にはなかった。記号はあくまで代理だからである。それが単色の絵の具になってはじめて、キャンバス上に描かれたものが対象として言及されるようになったのである。

 ロシア構成主義がもたらした成果とは、対象と記号という関係性を解体し、記号自身が対象ともなりうる可能性を示したことだろう。意味を表現するためだと思われていた言葉が、意味とは関係なく、響きだけで感銘を与えることもあり得るのだ。アルファベットが、意味を離れて、ポスターの上で踊りだすこともあり得るのだ。

 物の価値には二重性がある。使用価値と交換価値である。使用価値は役に立つということで、交換価値は価格と言い換えてもいい。何かの役に立つからこそ、人はそれを欲しがる。そしてお金を払ってそれを買う。しかし市場経済では、ふたつの価値は分かちがたくなっている。本来は、交換価値があろうがなかろうが、使用価値こそが価値だったはずなのに、価格で価値が判断されることになり、使用価値は交換価値に従属するようになる。従属した関係の中では、それぞれを単独で取り出すことは不可能である。対象と記号という関係の解体をここに適用するならば、交換価値に隠蔽されてしまった使用価値を浮かび上がらすことが可能になるのではないか。

 記号や交換価値であるまえに、物はそれ自身として、この社会に参加している。物だけでなく、人も同じだろう。社会によって与えられる役割以前に、人は人としてそこにある。「人間の機械化」という表向きのスローガンとは裏腹に、構成主義にはもっとアナーキーなヴィジョンが隠されているように私には思える。

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2010年08月24日 20:19に投稿されたエントリーのページです。

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