外部から隔絶された無人島という環境は、われわれの世界とはまったく異なった世界をつくりだすのではなく、むしろわれわれの世界を写すクローンをつくりだすのではないか。
性(セクシュアリティ)が制度であるということを、この映画は暴き出す。無人島に流れ着く前の結婚制度はここでは通用しない。だから清子の夫は、早々と舞台から姿を消すことになる。そして男達による清子の奪い合いが始まる。しかし、腕力に勝る男が勝利を収めるという図式は、あっさりと否定されてしまう。性は本能ではない。あるいは少なくとも本能だけではない。彼らは制度としてこの問題を解決しようとするのだ。
彼らは、本能によって奔放に行動しているわけではなく、かといって脅迫されて厭々そうしているわけでもない。与えられた条件の中からその都度制度をつくりあげ、その制度を自分に納得させながら行動しているに過ぎないのだ。
「愛」や「道徳」すらそうした制度に組み込まれていることが明らかになる。島の外部にいるわれわれの道徳観で清子の行動を判断するのが間違いであるというだけでなく、むしろわれわれの世界も結局は制度の枠組みの中でつくられた道徳観に支配されているということなのだ。立場を入れ替えれば、東京島の道徳観からわれわれの道徳観を見ることになる。われわれの中で、外部から東京島を見るという視線が逆転し、東京島から外部の世界を見る視線がいつのまにか生まれている。東京島は、世界の縮図とも言える。
この主題は、フェミニズムの理論と重なる。どこまで行っても出口はない。無人島で清子に出口がないように(もちろん男達にも出口はないのだが)、島の外にも女達の出口はない(もちろん男達にもない)。フェミニズムとは、そこからの具体的な解放の道を指し示すものではなく、まずはわれわれが捕らえられているこの構造の存在に気づかせるためのものだった。
ある本で読んだことを思い出した。オウム真理教の出家信者に上野千鶴子の信奉者がいたそうである。またアダルトビデオの出演者にも上野千鶴子の信奉者がいたそうである。それが彼女達にとっての自己解放であるならば、道徳的に批判する資格など誰も持っていない。ただ言えることは、自分自身を見つめる視点を、彼女達がどこか実践の過程で失っているのではないかということ。自己解放という安住の地に辿り着いたとたんに、われわれを捕らえている構造そのものがなくなってしまうかのように錯覚してしまうのが問題ではないのか。
そもそも社会科学の理論というのは、自分自身を含めた全体を外部から眺めることによってしか成立しない。もちろん自分自身を眺めることは実際には不可能であるから、あくまで仮想的ということであるが。東京島の謎を解く鍵はここにあるのではないかと思う。
清子の行動がいかに場当たり的に見えようとも、彼女には外部につながる接点が常にあった。それは、脱出への希望である。彼女が自分に言い聞かせているだけのはかない希望ではあるが、これが島の男達との違いである。自分を相対化する視点といっても良いだろう。そうした他者的な視点を自分のなかで持ち続けることで、彼女は彼女でありえた。
女が彼女一人という設定であるから、清子があくまで個として登場するのは当然である。それに対して、男は集団、群れとして登場する。もっと個々がバラバラになってもよさそうなものなのに、なぜか男は群れをつくる。その例外はワタナベかもしれない。『東京島』の物語は、他者性を排除していくことで進行する。群れに解け込まないワタナベは、集団にとっての他者であることによって、逆に集団を安定させていたと言えるだろう。そうした他者性を担う人物が排除されていった後で残った島の社会は、悪夢以外の何物でもない。
