Facebookとマトリックス
Facebookに登録してみて思った。これはマトリックスだ。もちろん映画『マトリックス』で描かれた仮想世界のことである。
Facebookが他のSNSと大きく異なるのは、実名主義だということである。実際には名前だけでなく、勤務先、出身校、住所なども記入を要求される。つまり現実の要素がネットの中にコピーされていくのだ。そうした要素は単なる記号ではない。職場の上下関係もそのまま持ち込まれるだろうし、近所付き合いの関係も持ち込まれるだろう。そうした生々しい部分も同時にコピーされることで、逆に人々はネット世界に安心感を覚えるのかもしれない。きれいごとだけのネット世界は嘘っぽい。ネット世界にあっても、本物だと信じるに足る理由が欲しい。それを突き詰めれば、ネットに現実を再現するという方法しか残らないのではないか。
だがネットが現実世界のコピーならば、現実世界でしていることネットでわざわざ再現する必要もないのではないか。そうした自家撞着を孕んでいるにせよ、いったんネットにコピーされることで、現実にはありえないような速度と力を獲得できるとしたら、それはネット世界の存在意義となりえるだろう。通信の速度、働きかける対象の範囲の広さは、あたかも人間の力が何百倍にも(あるいはもっと)なったかのような錯覚を抱かせるには十分だ。しかもそれが利益や名声という形で、生身の自分のほうに還元される。コンピューターに支援された人間という理想を、われわれは手に入れたかのように見える。
そこで何が起こるか? 現実とネットの世界がシームレスであることは、主体の位置がどこにあってもいいということだ。コンピューターを操っている自分が現実で、ネット上のコピーが虚構だなどと考える必要はない。これが匿名のネットの世界だったらどうだろうか。主体は、パソコンの画面を眺めている現実の自分以外ではありえない。画面に感情移入しようとすればするほど、そうしようとしている現実の自分が意識されるもどかしさだけが残る。Facebookがあえて実名主義を掲げたことは、小手先の問題ではない本質的な転換を含んでいる。Facebookは、リアルとバーチャルとの距離の取り方を無効にしてしまう。リアルとバーチャルは限りなく近づいていく。何百倍もの力を手に入れた人間は、ネット世界を知る以前の、非力だったころの現実にはもう戻れないだろう。こうしてネット世界は、人々の意識の中で現実と一致し、「マトリックス」が完成する。
もちろん世界がマトリックスになったからといって、表向きは何も変わらない。社会的な変革も、起こるべきときが来れば起こるだろう。しかし、体制の基盤に関わるような変革、つまり革命は起こらない。なぜなら、体制の枠組みそのものを疑う視点がもはや存在しないからである。もし仮に体制に対する疑問が生じたとしても、それは広がる前に潰されるだろう。なぜなら、情報のインフラを握っているのは体制の側だからである。
中東革命でfacebookやtwitterが果たした役割が大きく取り上げられたりしているが、そうした側面を強調することは中東革命の本質を見誤ることにつながるだろう。動機にしても運動の方法にしても、もっとリアルなはずである。Facebookをやたらと持ち上げるのは、この地域に今後グローバリズムを普及させたいアメリカの意向が働いているからだろう。Fecebookの背後には、グローバリズムがある。
