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2011年03月 アーカイブ

2011年03月08日

Facebookとマトリックス

 Facebookに登録してみて思った。これはマトリックスだ。もちろん映画『マトリックス』で描かれた仮想世界のことである。

 Facebookが他のSNSと大きく異なるのは、実名主義だということである。実際には名前だけでなく、勤務先、出身校、住所なども記入を要求される。つまり現実の要素がネットの中にコピーされていくのだ。そうした要素は単なる記号ではない。職場の上下関係もそのまま持ち込まれるだろうし、近所付き合いの関係も持ち込まれるだろう。そうした生々しい部分も同時にコピーされることで、逆に人々はネット世界に安心感を覚えるのかもしれない。きれいごとだけのネット世界は嘘っぽい。ネット世界にあっても、本物だと信じるに足る理由が欲しい。それを突き詰めれば、ネットに現実を再現するという方法しか残らないのではないか。

 だがネットが現実世界のコピーならば、現実世界でしていることネットでわざわざ再現する必要もないのではないか。そうした自家撞着を孕んでいるにせよ、いったんネットにコピーされることで、現実にはありえないような速度と力を獲得できるとしたら、それはネット世界の存在意義となりえるだろう。通信の速度、働きかける対象の範囲の広さは、あたかも人間の力が何百倍にも(あるいはもっと)なったかのような錯覚を抱かせるには十分だ。しかもそれが利益や名声という形で、生身の自分のほうに還元される。コンピューターに支援された人間という理想を、われわれは手に入れたかのように見える。

 そこで何が起こるか? 現実とネットの世界がシームレスであることは、主体の位置がどこにあってもいいということだ。コンピューターを操っている自分が現実で、ネット上のコピーが虚構だなどと考える必要はない。これが匿名のネットの世界だったらどうだろうか。主体は、パソコンの画面を眺めている現実の自分以外ではありえない。画面に感情移入しようとすればするほど、そうしようとしている現実の自分が意識されるもどかしさだけが残る。Facebookがあえて実名主義を掲げたことは、小手先の問題ではない本質的な転換を含んでいる。Facebookは、リアルとバーチャルとの距離の取り方を無効にしてしまう。リアルとバーチャルは限りなく近づいていく。何百倍もの力を手に入れた人間は、ネット世界を知る以前の、非力だったころの現実にはもう戻れないだろう。こうしてネット世界は、人々の意識の中で現実と一致し、「マトリックス」が完成する。

 もちろん世界がマトリックスになったからといって、表向きは何も変わらない。社会的な変革も、起こるべきときが来れば起こるだろう。しかし、体制の基盤に関わるような変革、つまり革命は起こらない。なぜなら、体制の枠組みそのものを疑う視点がもはや存在しないからである。もし仮に体制に対する疑問が生じたとしても、それは広がる前に潰されるだろう。なぜなら、情報のインフラを握っているのは体制の側だからである。

 中東革命でfacebookやtwitterが果たした役割が大きく取り上げられたりしているが、そうした側面を強調することは中東革命の本質を見誤ることにつながるだろう。動機にしても運動の方法にしても、もっとリアルなはずである。Facebookをやたらと持ち上げるのは、この地域に今後グローバリズムを普及させたいアメリカの意向が働いているからだろう。Fecebookの背後には、グローバリズムがある。

2011年03月21日

リアルと想像

 津波が海岸沿いの街に襲い掛かる映像は衝撃的だった。だがそれにもまして印象的だったのは、最初に被害を伝えた映像が、ヘリコプターから撮られた映像だけだったことだ。地上からの映像はない。上空からの映像が災害のリアルさを明らかにする一方で、われわれはそのリアルさの中に入っていくことができない。被災地のリアルは、非被災地にとっては、同じ意味でのリアルではない。メディアの介在によって追体験するという意味でのリアルである。

 被害の詳細があきらかになってきても、結局この構図は変わらない。被災地と非被災地とは、物理的にも、情報的にも隔たっている。物理的な隔たりはもともとあったわけだが、普段はそうした隔たりを必要以上に意識することはなかった。しかし情報の断絶が、物理的な本来の距離というものをわれわれに意識させる。そして、隔たりが大きければ大きいほど、隔たりの向こうにあるリアルに対しての渇望も強くなる。それはもちろん善意から来るものだが、それがニュートラルに作用するわけではない。メディアや制度が介在することで、変形されながら伝わっていくことになるだろう。

 こうした状況は、ヴァルター・ベンヤミンが「政治の美学化」と呼んだものではないだろうか。現代社会において、リアルをリアルのままで体験する可能性は、限られた当事者以外にはない。リアルを渇望しながらも、直接それに触れる可能性を絶たれたわれわれは、「物語」を通じてリアルを了解する。物語は、意図的に流布されることも、自然発生的に現れることもあるだろう。いずれにしても、わかりやすい物語ほど広まりやすい。今マスコミ報道で行なわれているのは、報道という名の物語の流布であり、一種の情報戦である。

 リアルは確かにある。しかしそれはあまりに隔たっている。リアルへの渇望は、その隔たりを想像力によって越えようとする。リアルとは想像力の産物なのだ。その想像力を、安易に与えられる物語に収束させるのではなく、それらを乗り越えるためにこそ使う必要がある。

 わかりやすい物語がどんなものかは、阪神大震災ですでに経験済みではなかったのか。まずはオウム真理教のようなカルトの出現、そしてナショナリズムの台頭である。自信の喪失を物語によって代償しようとする点が共通する。「痛みを伴う改革」という名のもとで、自己犠牲の強要を受け入れてしまう背景も、このときにつくられていったのだろう。

2011年03月22日

想像力の射程

 リアルが直接手に取れるものではなくなってしまった時代にあって、われわれは想像力によってリアルを再構成するしかない。限られた情報を想像力で補うことで、一歩ずつリアルを獲得していかなければならない。得られる情報が同じだとすれば、リアルの度合いを決めるのは想像力の射程である。リアルの深さは、想像力の射程の長さによって決まる。

 想像力は空想とは違う。想像力とは、あらゆる可能性を考慮するすることで成り立つ。今見えているものがすべてではない。1週間後、1年後、10年後に状況がどのように変化していくか。状況の背後にあるものは何か。その行動が、誰にとって有利で、誰にとって不利なのか。そして見えないものを可視化するには知識が不可欠である。放射線という見えないものを相手にする場合には特にそうだ。放射線の知識がなければ、恐怖もないし、そこにはリアルは生まれようがない。

 非被災地にあって被災地や被災者に想いを寄せるということは、被災地のリアルを想像力によって再構成するということである。だが被災地と一体になることをどれだけ願おうとも、そこにはどうしても壁が立ちはだかる。これは矛盾なのか。個人としての無力感は、国家が振りまく安易な物語に回収されてしまう以外にないのだろうか。

 むしろこう考えたらどうだろう。矛盾を引き受けることがリアルなのだと。隔てられた場所、個人と組織、個人の中にもある相容れない気持ち。それらに引き裂かれた状況にどれだけ耐えられるのかが、リアルなのではないか。人間を、立場によって単純に振り分けてしまうような考え方にこそ、罠があるのではないか。

 福島第一原発の現場で今も作業にあたる人々がいる。彼らの自己犠牲的な働きによって、事態は最悪の状態を免れている。しかし、だからといって東京電力を批判してはならないということではないだろう。原発事故に関しては人災である。加害者と被害者がいる。だが加害者と被害者は、見方のレベルによってずれたり入れ替わったりする。電気の利便性を享受してきたという点では、われわれも加害者である。加害者の会社に属することは、加害者であると同時に被害者でもあるということだ。こうしたもつれた関係を単純な善悪で一刀両断することに意味があるとは思えない。もちろん批判する側は、自分が100%正義であることを望むだろう。何一つ落ち度がないことは、たとえば裁判では最大の武器になる。

 しかし実際には100%の善人もいなければ、100%の悪人もいない。善人と悪人は、おなじ人間の中に同居している。善人を装うことにも意味はないし、悪人を装うことにも意味はない。それに心に思っていることが、そのまま行動に現れているとも限らない。自分の内にさえある引き裂かれた状況をとりあえず認めること、それが想像力の出発点ではないだろうか。

 あらゆる可能性を排除しないこと。われわれはそれを立脚点にする以外にない。

2011年03月24日

図書館比較

 図書館はときどき利用する。読みたい本があらかじめ決まっていて、それを探しに図書館に行くということはあまりない。もっと一般的な情報収集のためである。ネットでも出来るが、やはりまとまった量を読むとなると、紙のメディアの方が優位である。

 自宅から30分圏内にある図書館を比較してみた。条件にあてはまる図書館は他にもあるが、ここでは私が利用したことがある図書館だけをとりあげる。


■山科図書館
□交通手段:徒歩あるいは自転車
□最寄の図書館である。蔵書数は多くないし、興味がある分野の本は少ない。新聞・雑誌コーナーは狭いが、自転車で5分で行けるという手軽さがあるのでたまに新聞を読みに行く。バルコニーに出ることができて、天気がいい日にはベンチで本を読めるのだが、いかんせん読みたい本が置いてないので残念である。

■醍醐中央図書館
□交通手段:自転車
□ショッピングセンターとの複合施設。蔵書数も多く、読みたい本も多い。明るくカジュアルな雰囲気。新聞・雑誌コーナーは、背もたれのある椅子(ソファ)で、ゆったりと読める。置いている雑誌の数が多い。テーブル席もあり、じっくり調べ物をするには便利。

■京都府立図書館
□交通手段:自転車
□岡崎公園の中にある。歴史的に由緒ある建物。内部は、1階と地下1階にある閲覧室を、中央の螺旋階段でつなげるという大胆な構成。この図書館には、厳粛な雰囲気がある。大学の図書館から受ける印象に似ている。テーブル席の数が多く、腰を落ち着けて調べ物をするための図書館である。冷やかしで新聞だけを読みに行くというのは、ちょっと気後れする。

■右京中央図書館
□交通手段:地下鉄
□京都市立の図書館20館のうちで、一番新しく、蔵書数は京都市中央図書館の次に多い。興味のある分野の本は、醍醐中央図書館と比べると少ない。雑誌は種類が多い。一般雑誌に限れば、5つの図書館の中で一番多い。建物は、右京区役所等との複合施設。おしゃれでゆったりしている。畳敷きの閲覧席や、カフェのカウンター風の閲覧席もある。右京中央図書館の最大のメリットは、自分のノートパソコンを持ち込めるということ。ノートを取りたいときには便利である。

■滋賀県立図書館
□交通手段:自動車
□びわこ文化公園の中にある。周囲の環境が良い。蔵書数では、京都府立図書館を凌ぐ。興味のある分野の本を一番多く置いているのもこの図書館である。残念なのは、閲覧室にテーブル席がないこと。椅子やベンチは必要な数量があるのだが、テーブルがないことにはノートを取ったりできない。新聞・雑誌は、ソファーでゆったりと読むことができる。まるでホテルのロビーのような雰囲気である。

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