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2011年04月 アーカイブ

2011年04月09日

『山口組概論』

 数日前から、猪野健治『山口組概論』(ちくま新書)を読んでいた。東北の地震とも関連する漠然とした問題意識があったからだ。山口組を初めとする「暴力団」は、今回の地震の被災地に物資を届ける等の支援を行なっている。しかもかなり大掛かりに。阪神大震災のときも、中越大地震のときも、そうした支援は行なわれた。しかしこうした支援活動は、マスコミでは大きく取り上げられることはない。外国の新聞や雑誌ではこんな報道もあったという形で、間接的に取り扱われるだけである。マスコミの報道にバイアスがかかっているのは、この事実だけ見ても明らかだろう。

※「暴力団」と書いた部分は、「ヤクザ」と読み換えた方がしっくりくるかもしれない。

 ボランティアとして現れる外面、そして「暴力団」という内面。こうした相容れないような両面を持つ現象に直面したとき、思考停止に陥ってしまうのがマスコミである。だから安直にどちらかに割り切ってしまい、それ以外の面をなかったことにしてしまう。同じ構造が戦争責任の問題にもあって、被害者であると同時に加害者であるという二面性を受け入れられず、どちらかに割り切ってしまう。だから中国や朝鮮を正面から見据えることができず、頭の中で固定化してしまった図式から一歩も出られなくなってしまう。

 二面性をあるがままに捉えなおすことが、まずは出発点だ。「市民の敵」とされる山口組等の「暴力団」だが、初めのころはそうした位置づけではなかった。もちろん暴力沙汰を起こす人たちではあったが、時には労働者の権利向上のために闘う人々であり、戦後の混乱期には、警察と協力して街の治安を守る人々でもあった。高度成長期には、スト破りや労働組合弾圧に手を貸す。つまり資本家側に寄っていくのである。政治家とのつながりも深めていく。エスタブリッシュメントのダークサイドを担っていたといえる。それが一転したのが東京オリンピックの頃で、エスタブリッシュメントは、それまで散々利用してきた「暴力団」を一挙に切り捨て、あたかも日本の政財界がクリーンであるという装いを纏おうとしたのである。

 弱きを助けるという任侠道の部分、金儲けをしたいという世俗的欲望、その両者をもった渾然とした存在だった「暴力団」が、高度成長期の終盤に突然、「市民の敵」というひとつの看板にまとめられてしまったのである。われわれは通常、今流通しているこのイメージしか知らないため、暴力団の震災ボランティアに違和感を感じるのだろう。しかしそれはもともと彼らの組織の原点だったとも言えるのである。

 暴対法による取締りが厳しくなってきていることもあり、「暴力団」も、金融、不動産、建設等の合法ビジネスの方に大きく比重を移している。暴力を匂わすことは即逮捕につながるので、彼らがビジネスとして行っていることは、他の非「暴力団」企業と変わらないことになる。だがここでひとつパラドキシカルな疑問が浮上する。暴力なしでビジネスが成立するなら、「暴力団」という出自を捨ててもよさそうなものなのに、なぜ彼らは捨てないのか。結局、「任侠道」とは、彼らにとっての十字架なのだろう。それを背負うがゆえに、合法ビジネスの世界では大きなディスアドバンテージを覚悟しなければならない。だがそれは、彼らのアイデンティティーでもあるのだ。他律的に与えられるアイデンティティーとしてではなく、自ら選び取ったアイデンティティーとして。

2011年04月13日

『パウル・クレー展』

 『パウル・クレー おわらないアトリエ』。京都国立近代美術館。2011年3月12日から5月15日。

20110412.jpg

 会場に入ってすぐの壁には、初期の鉛筆描きの単線のスケッチが何枚か展示されていた。ややデフォルメされた線で、対象の特徴が的確に捉えられている。線とは、対象を背景から切り取るものなのか。輪郭線によって、対象と対象外が切り分けられる。対象と対象外との境界線が、画面の中では輪郭線として現れる。

 対象を描くということは、対象でないものとの差異を描くということだ。差異を表現する技法によって、芸術上の潮流や流派が分かれるのではないだろうか。例えば、差異を表現する手段に「点」を採用したのが印象派である。光が点の分布として表現される。単線のスケッチの場合は、差異の表現手段はもちろん線である。それ以外に面による表現も考えることもできる。

 単線で描く場合、対象とそうでないものとの区別はまだわかりやすい。だが点で描かれる場合には、対象は輪郭を失い、既に光の分布に還元されてしまっている。そこでの差異とは、モノと背景との差異ではなく、光の分布密度の差異である。こうして技法は対象の捉え方を規定する。というよりむしろ、技法そのものが対象という虚構をつくりだすと言うべきなのではないだろうか。モノが輪郭線によってひとつひとつ分けられるというのは幻想で、本当は分けることのできない一体のものかもしれないのだ。

 クレーの着色された作品では、対象を面で捉えようとしているように見える。色の異なる面と面の間には、もちろん輪郭線が発生してしまうのだが、問題は、この輪郭線をいかにして消去するかにある。面と面との境界をぼかしたり、線描とはずらして着色をしたり。だがこうして面として表現された対象は、当然単線だけで切り取られていた対象とはずれてくる。それまで背景として扱われていた部分まで含めた新たな対象がそこに再構成されるのだ。それまで対象を切り出す役割を果たしていた線は、今度は面の中を装飾する紋様のようなものに姿を変える。

 面による再構成は、点による再構成とはまた別の虚構をつくりだすだろう。別々のモノ同士の間の類推関係などが重視されることになる。ここでの類推関係とは、それぞれのモノが以前から持っていた意味ではない部分で生じる類推関係である。こうして絵画は、現実の描写にとどまるのではなく、現実を変えるためのモノ同士の新たな関係性の発見へと導くだろう。

2011年04月15日

住宅政策はどうあるべきか

 地震を小さくすることはできないが、建物に加わる地震の力を小さくすることはできる。免震構造等の技術について言っているのではない。もっと簡単な理屈である。地震力は建物の質量に比例するわけだから、建物を軽くすれば、加わる力はそれに比例して小さくなる。重たい鉄筋コンクリート造(RC造)の建物と、軽い木造の建物を比較して、一概にどちらが地震に強いと言えないのはこのためである。質量に比例した地震力が加わるのであるから、それぞれ、それに耐えられるように設計しなければならないというだけの話である。

 ただ傾向として言えることがある。重たい建物はそれを支えるために柱等を太くする必要があり、柱を太くすれば建物も重たくなる、という循環に陥っていく。逆に軽くすれば、それを支える構造体の質量を軽くすることができ、全体としてさらに軽くなる。だからコスト的なことを考えても、軽量化は有利なのである。

 建物を軽い材料でつくること、そして住むにあたっては、できるだけ重たいものを置かないこと、これが地震対策における一番簡単かつ効果的なソリューションである。階数は、2階建てや3階建てよりも、平屋が良い。平屋の場合、床は地面が直接支えるので、構造体は床にかかる人や物の重さを支える必要がない。極端に言えば、構造体は屋根だけ支えられれば良い。そう考えれば、もっと簡潔で合理的な構造が考案されてしかるべきだろう。

 平屋では必要な住戸面積が確保できないという反論があるだろう。確かに階を積み重ねれば、狭い土地を有効利用できる。都市における土地不足は、高層建築という解法を見出した。そして高層建築は、周辺の利便性を高めることにより、さらなる地価の上昇をもたらす。それがさらに高層建築を誘導するという循環が生まれる。だが、この循環は本当に必要なものなのだろうか。そして住宅においても、この循環は踏襲されるべきなのだろうか。

 40年ほど前には、50平方メートルの住戸に家族4人で住むというのは普通だった。しかし現在の水準からすれば、これでは狭く感じるだろう。マンションでも70平方メートル、戸建なら100平方メートルは必要だと考えるだろう。これが豊かさというものだ。日本の住戸は、もはやヨーロッパと比べてそれほど面積が小さいわけではない。せっかく手に入れた豊かさを、誰もがそう簡単に手放そうとはしない。

 だがその豊かさの内実はどうだろう。通常住宅は、ローンを組んで購入することになる。ローンの負債と手に入れた住宅(資産)とは、収支の上ではつりあっているはずである。しかし現実には、住宅の資産としての目減りは、ローンの残高が減る以上に急速に進む。だからいざ売却することになったときにはローンだけが残る。これが人々を土地や勤めている会社に縛り付けることになる。さらに災害で住宅を失った場合、元のローンと新しく購入した住宅のローンとを二重に背負わなければならなくなる。

 金融政策まで含めた、持ち家政策の帰結とはこのようなものである。持ち家政策を推進するならば、せめてヨーロッパ並に、住宅を手離した時点で債務を免除すべきだろう。また災害時にも被災者に債務が残らないような方策をすべきだろう。そうした政策の変更が実現するまでは、われわれはとりあえず自衛するしかない。

 軽減されるべきは、建物の重さだけではない。建物にかかるコストも軽減されなければならない。それによってローンの金額を縮小し、期間を短縮することが必要である。建物の軽量化、コストの軽減、そして生活をシンプルにしていくことは、相互に結びついている。とにかく身軽になること。それがとりわけ災害時には安全保障になる。日本のように地震から逃れられない国にあって、絶対に壊れない建物をつくることは、現実的には不可能である。それならば、住人の生命を守ることを最低限の条件とし、壊れても自分で直せるような建物、もし放棄することになっても債務が残らないような建物にしておくことが現実的である。

2011年04月18日

変動時間制労働市場

 価格が変動することで不均衡が解消されるというのが、経済学の理論である。たとえば貿易不均衡がある場合、為替レートが変動することによって均衡が回復するということになる。しかし現実はなかなか理論通りにはいかない。価格で調整するということにそもそも無理があるのではないか(価格の硬直性)。そこで労働市場を例に、価格ではなく、時間で調整することを考えてみる。

 1日8時間を労働時間の標準と仮定する。報酬は、正社員もアルバイトも、時給換算されるものとする。1時間当たりの最低賃金は保証されているものとする。

 人が1日8時間以上働きたいと思うのは、そうすることにメリットを見出すからである。たとえば技術革新が行なわれたときなどである。新しい商品を人より早く手に入れようと思ったら、当然労働意欲も高まるだろう。景気の上昇局面では、こうした連鎖が見られる。だがこうした状況を放っておくと、景気が過熱しすぎて、最終的にはバブルの崩壊という形で幕を閉じることになる。

 景気の上昇曲面での過熱を抑制し、逆に後退局面では労働意欲を刺激するような方法を考えられないか。そこで登場するのが、変動時間制である。

 1時間は、標準的には60分だが、他人よりも多く働きたいという人がいる場合には、1時間が65分になったり76分になったりする。もちろんこれは需給によって決まる。他人よりも1分でも長く働きたいという人が多い場合には、1時間が120分になったりすることもあるだろう。逆に、誰もが労働意欲を失っているような状況では、1時間が50分になったり、30分になったりする。もちろんどちらの場合も時給は一定である。

 そうすると、働けば働いただけ豊かになれると信じていた人も、ある一定の限界に到達する。1時間のレートが120分になった場合、1日の3分の2 を労働に当てなければならなくなる。余暇もなくなるし、時給が一定だから、実際には収入が増えるわけではない。こうして労働に一定の歯止めがかかるのである。逆に景気の後退局面では、際限なく生産が縮小していくプロセスに、ある時点で歯止めがかかることになる。1時間が30分のレートになれば、十分な余暇を確保しつつ、収入も確保することが可能になる。こうして、変動時間制は、景気変動の調整機能を持つことになる。

 人びとは、毎朝日経新聞で、今日の時間レートをチェックするようになるだろう。1時間=70分だと、「今日の仕事終りは、1時間60分換算で19 時50分。ちょっと働きすぎだな。」とか、1時間=48分だと、「1日が30時間か、アフターファイブは、13時間もあるな。」とか考えて行動するようになる。余暇が増えれば消費も増えるので、経済にはプラスに作用する。求職者は、このレートを眺めながら、最適なタイミングで就職すれば良いのである。

 1時間が何分になるかが常に変動する場合、時計の表示はどうするのかという疑問があるかもしれない。これは電波時計を使えば全然問題はない。そのときどきのレートに合わせて、常に時計の表示が変わるのである。店の開店時間や閉店時間も、もちろん毎日変わることになる。高速道路等の制限速度も、そのときどきで変わることになるし、スピード違反の取締りの速度もそのときどきで変わることになる。景気の良いときには、調子に乗ってスピードを出さない方が良いということだろう。

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