『山口組概論』
数日前から、猪野健治『山口組概論』(ちくま新書)を読んでいた。東北の地震とも関連する漠然とした問題意識があったからだ。山口組を初めとする「暴力団」は、今回の地震の被災地に物資を届ける等の支援を行なっている。しかもかなり大掛かりに。阪神大震災のときも、中越大地震のときも、そうした支援は行なわれた。しかしこうした支援活動は、マスコミでは大きく取り上げられることはない。外国の新聞や雑誌ではこんな報道もあったという形で、間接的に取り扱われるだけである。マスコミの報道にバイアスがかかっているのは、この事実だけ見ても明らかだろう。
※「暴力団」と書いた部分は、「ヤクザ」と読み換えた方がしっくりくるかもしれない。
ボランティアとして現れる外面、そして「暴力団」という内面。こうした相容れないような両面を持つ現象に直面したとき、思考停止に陥ってしまうのがマスコミである。だから安直にどちらかに割り切ってしまい、それ以外の面をなかったことにしてしまう。同じ構造が戦争責任の問題にもあって、被害者であると同時に加害者であるという二面性を受け入れられず、どちらかに割り切ってしまう。だから中国や朝鮮を正面から見据えることができず、頭の中で固定化してしまった図式から一歩も出られなくなってしまう。
二面性をあるがままに捉えなおすことが、まずは出発点だ。「市民の敵」とされる山口組等の「暴力団」だが、初めのころはそうした位置づけではなかった。もちろん暴力沙汰を起こす人たちではあったが、時には労働者の権利向上のために闘う人々であり、戦後の混乱期には、警察と協力して街の治安を守る人々でもあった。高度成長期には、スト破りや労働組合弾圧に手を貸す。つまり資本家側に寄っていくのである。政治家とのつながりも深めていく。エスタブリッシュメントのダークサイドを担っていたといえる。それが一転したのが東京オリンピックの頃で、エスタブリッシュメントは、それまで散々利用してきた「暴力団」を一挙に切り捨て、あたかも日本の政財界がクリーンであるという装いを纏おうとしたのである。
弱きを助けるという任侠道の部分、金儲けをしたいという世俗的欲望、その両者をもった渾然とした存在だった「暴力団」が、高度成長期の終盤に突然、「市民の敵」というひとつの看板にまとめられてしまったのである。われわれは通常、今流通しているこのイメージしか知らないため、暴力団の震災ボランティアに違和感を感じるのだろう。しかしそれはもともと彼らの組織の原点だったとも言えるのである。
暴対法による取締りが厳しくなってきていることもあり、「暴力団」も、金融、不動産、建設等の合法ビジネスの方に大きく比重を移している。暴力を匂わすことは即逮捕につながるので、彼らがビジネスとして行っていることは、他の非「暴力団」企業と変わらないことになる。だがここでひとつパラドキシカルな疑問が浮上する。暴力なしでビジネスが成立するなら、「暴力団」という出自を捨ててもよさそうなものなのに、なぜ彼らは捨てないのか。結局、「任侠道」とは、彼らにとっての十字架なのだろう。それを背負うがゆえに、合法ビジネスの世界では大きなディスアドバンテージを覚悟しなければならない。だがそれは、彼らのアイデンティティーでもあるのだ。他律的に与えられるアイデンティティーとしてではなく、自ら選び取ったアイデンティティーとして。

