琵琶湖岸の風景

琵琶湖の東岸はサイクリングロードが整備されていて走りやすい。だが琵琶湖大橋を渡って西岸に出ると、自動車と歩行者に挟まれて、自転車は立場がない。西岸はサイクリングには向いていない。
西岸に出ると風景も変わる。家が建て込んできて街の密度があがり、生活感がただよってくる。堅田を少し南に下がったところにあるのが雄琴だ。歓楽街である。昼間でも、看板や建物の装飾でその場所がどういう場所かはすぐにわかる。それは、個々の建物からの印象というよりも、街全体から受ける印象だ。どこかで見たことのあるような風景。そこには賑やかさとうら寂しさが同居している。
それは海水浴場の海の家に似ているのではないだろうか。シーズンオフの、見捨てられたかのような海の家はもちろん寂しいのだが、賑わっている夏の間でさえも、賑わいの過ぎ去った後の姿が容易に見えてしまい、余計に寂しくなる。賑わいは、そもそも永続することが不可能なのではないか。短い時間の高揚の後に来る長い不毛な時間が、逆に現在の賑わいや高揚をもたらすのではないか。
歓楽街では、建物のつくりは安っぽい。装飾は見かけ倒しだ。照明の効果で、夜はそこそこ見られるが、昼間は安っぽさや薄っぺらさがそのまま目に入ってしまう。しかしそれが悪いことだと一概には言えないだろう。そうした建築、そうした街があってもいい。
建築は、そもそも永続性を目指してきた。神殿や寺院建築はもちろんであるが、世俗的な建物にしても10年や20年程度で壊してしまうことなど考えられない。永続性を目指す建築が集まって街がつくられ、街並みは後世に伝えられていく。それはヨーロッパだけではない。日本の建築においても永続性が目指されてきた。法隆寺は例にあげるまでもないが、民家にしても、木造だから永続性がないとは言えないのである。
現在の日本の都市や郊外の建物や街並みには、永続性がない。アウラがないと言ってもよい。街が美しくないというのはそういうことだ。永遠に残そうという気概を持って建てていないのであるから、そこそこのものしか建ちようがない。現代人は、建築の永続性によって永遠へとつながる回路を断ち切ってしまった。もちろんそれにはマイナスの面だけでなくプラスの面もある。永続性の付随する権威や旧弊から解き放たれ、自由を手に入れたとも言えるだろう。
政治や経済がもたらす思考のスピードの変化に、これまでの建築や街は対応できなかったということかもしれない。時代の最先端は、建物の中身ではなく、薄っぺらな表層の装飾をこそ必要としているのだ。流行が変われば、そうした装飾は次々と取り替えられていく。雄琴のような歓楽街だけではない。商店街も分譲住宅地もオフィス街も、永続性を断ち切ったところで、現在の繁栄を享受しているのだ。それらの風景は、海水浴場の海の家のように、華やかでいて同時に寂しい。
過去からの連続性を断ち切ることで、新たな創造は可能になるのだろうか。ベンヤミンが問いかけたのは、そうしたことだろう。複製技術時代が新たな創造をもたらすというだけならば、話は短絡的すぎる。むしろ複製技術時代とは、コピーの氾濫の中に主体が埋もれていくという泥沼のような状況だろう。それが現代という時代である。それを踏まえたうえで、そこに新たな創造の可能性を見出せるのかどうか。
