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2011年07月 アーカイブ

2011年07月10日

My camera

Camera01.jpg

 フィルムカメラは、以前はいくつか持ってましたが、壊れたり他人に譲ったりで、残っているのはこれだけです。OLYMPUS OM-1。レンズは50mm-F1.8。10年ほど前に購入。購入後しばらくしてシャッター廻りをオーバーホールしていますが、その後は故障もなく使っています。

 カメラは、余計な機能の付いていないシンプルなものが一番です。AF(オートフォーカス)もAE(自動露出)も不要です。時代の流れとしては、フォーカスを合わせたり、露出を決めたりする作業を自動化する方向に動いているのですが、それで便利になったかというと、必ずしもそうは言い切れません。自動化されたカメラだと、フォーカスが合うまではシャッターが押せない等、逆にストレスを感じたりもします。

 シャッターを押す前に決めなければならないのは、シャッタースピード、絞り、フォーカスの3つです。1枚写すたびにこれら3つを決めるのは一見面倒に思われるかもしれません。しかし順序だてて考えてみれば、それほど難しい作業ではないとわかります。

 まずシャッタースピードをあらかじめ決めてしまいます。周囲の明るさを勘案しながら、手振れしないスピードに設定します。そして、各被写体ごとの露出の違いは絞りで調整します。ですからここまでで、シャッターを押す前にする作業を、絞りとフォーカスの2つに減らすことができたわけです。そして絞りですが、撮影場所が日向から日影に入ったような時には、もちろん変更する必要がありますが、周囲の条件が同じような場合には、細かく調整する必要はありません。写真をデジタルデータ化すれば、明るさは後で調整ができます。ですから結局、一枚写すごとに気を使わなければならないのは、フォーカスだけということになります。

 最近のカメラのAFは、人間よりも精度が高いかもしれません。でもフォーカスだけは、写真を撮る楽しみとして残しておいたほうが良いのではないでしょうか。面倒なことがひとつくらいはないと、楽しみもなくなってしまいます。

2011年07月16日

ローマン・エコハウス

 電気を使わずに夏を快適に過ごすにはどうすればいいのだろうか。

 電力危機が煽られているものの、実際には火力発電と水力発電による供給量で十分足りているらしい。原子力発電による供給は、もともと過剰なのだ。しかし、火力発電にせよ水力発電にせよ、そうした電力そのものの使用を少なくできるならば、それに越したことはない。

 塩野七生ではないが、こんなときには古代ローマ人の知恵を借りてみるというのはどうだろうか。ローマ人は、寝椅子やベッドに横になったまま、食事をしたり歓談したりした。給仕する奴隷がいたわけだから、床に降りる必要はなかったのだ。そうしたローマ人の生活スタイルは、海や湖に島が点在している様子を連想させる。

 そこで、実際に床に水を張ってみた。

roman_eco_house.jpg

 夏を快適に過ごすために、電気エネルギーを使って温度と湿度を下げることがこれまで行なわれてきた。それは、高温と多湿に対して正面から戦いを挑むという方法である。しかし一方で、高温と多湿に戦いを挑むのではなく、逆らわないという方法も考えられるのではないだろうか。空気の摂氏30度は暑くて不快だが、水の30度はそれほど不快ではない。われわれは乾いた環境が常態だと思っているため、汗をかくような暑さを嫌がるが、海水浴場で暑さを嫌がる人はいないだろうし、サウナでは積極的に汗をかこうとする。もともと人間には、暑さや湿度に対する適応性はあるのだと思う。そうでなければ、エアコンが発明される以前に人類は滅びていただろう。

 乾いた環境が常態だという先入観さえ払拭すれば、夏はもっと快適になる。風通しをよくすれば、風が蒸発熱を奪っていくので、温度は気温よりも下がる。濡れてもいいような服装で過ごせば、汗をかくことは気にならない。それにいつでも好きなときに、水に体を浸して、体を冷却すれば良い。地中の温度は年間を通じてそれほど変動しないので、地中の水道管を通ってくる水の温度は、気温よりも低い。だからエネルギーを使って水温をさらに下げる必要はない。冷房用の電気エネルギーはゼロにできる。

2011年07月25日

『コクリコ坂から』

 絵に描いたような予定調和でストーリーは進行する。登場人物はステレオタイプだ。与えられた役割の通り行動し、意外なところはなにもない。ノスタルジーとは、現在の時点から過去を振り返ることだが、この映画では、登場人物自身が既にノスタルジーを演じてしまっているようだ。言葉や行動の「落しどころ」が、意識されるにせよされないにせよ、あらかじめ内面化されているのだ。だから登場人物の思考や行動の振幅は小さい。問題を一挙に解決するようなヒーローも、常軌を逸した悪党も、ここには登場しない。

 ノスタルジーとは、至福である。時間の経過が、善悪の境界をぼかしていき、すべてがすべてが善として了解される。だが宮崎吾朗は、はたしてノスタルジーのためだけにこの映画をつくったのだろうか。単にそうした映画をつくるだけならば、彼以上に洗練されたセンスを持った監督はいくらでもいるだろう。むしろここで演じられたノスタルジーは、その背後にあるものを浮かび上がらせるための幕なのではないだろうか。

 舞台となる高校で繰り広げられるエピソードには、60年安保が重ねあわされているのは確かだ。時代の大きな節目ということである。その節目に主体としてどう関わるのかが、ひとりひとりに問われている。だが実際には、彼らが取りうる行動の選択の幅が限られているというのも確かだ。超越的なヒーローがいない世界においては、ひとりひとりがどんなにあがこうが、結局は予定調和的に進行するように見えるのである。この閉塞感は現在にも通じている。だから、映画に描かれたノスタルジーは、安住すべき場所としてのノスタルジーではない。

 世界を変えられるのは、物語作者が外部から与えるような超越的なヒーローでもなければ、奇想天外なプロットでもない。それは、予定調和な世界そのものの中になければならないのだ。あえて予定調和な物語を展開することで、宮崎吾朗が浮かび上がらせたかったのはそれだろう。この映画に即していえば、それは恋する能力というべきものであり、もっと一般的に言い換えるならば、想像力である。表向き振幅の小さい物語の中で、海や俊(登場人物)の心の振幅は最大になる。それは画面に現れるものというよりは、われわれこそが想像すべきものだ。

 ベンヤミンは、アダムとイブの失楽園を、人間の言語が被った宿命として描く。

・「人間は善悪の問いを立てる行為の深淵で、この名の言語のもとを去る。」
・「蛇の誘惑によってたどり着いた認識、何が善で何が悪かという知識は、名をもたない。」
 (「言語一般について、また人間の言語について」)

「名の言語」とは、神によって人間に与えられた言語であり、動物や物を次々と名づけていくことによって、世界を認識していく。その世界認識は予定調和であり、そこには至福が支配する。しかし、善悪の判断が必要とされたとき、予定調和は崩れ去る。それが人間が楽園を去るときであり、言語の完全性を失う代わりに、言語を乗り越える視点(つまり外部)を手に入れるのである。

 想像力とは、まさに言語の延長が言語を超える瞬間に他ならない。

2011年07月31日

京都会館の存続を巡って

 京都会館(京都市左京区岡崎・1960年竣工)を建て替えてオペラハウスにするという昨年末の京都市の決定はあまりに唐突だった。そこに至る経過をたどってみる。

 舞台設備が時代に合わないものとなっており、現代的な設備に改修する必要性はだいぶ前から言われていた。また耐震改修やバリアフリー改修の必要性も明らかだった。京都市では、各界の代表を集めた京都会館再整備検討委員会を設置し、検討を始めた。

 再整備検討委員会は、2005年7月13日の第1回から、2006年7月13日の第6回まで開かれた。

議事録は公表されている。
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_1.pdf(第1回)
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_2.pdf(第2回)
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_3.pdf(第3回)
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_4.pdf(第4回)
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_5.pdf(第5回)
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000005/5702/tekiroku_6.pdf(第6回)

オペラの上演に対応したホールが欲しいという意見は、興行者側の委員から出ているが、議論の中でそうした意見は、現実的な妥協点に収束していったことが読み取れる。オペラの上演に対応するホールをつくるには、C案(全面建替え)とする必要がある。しかし委員会での共通認識は、A案(建物内部の改修)またはB案(一部増築を伴う改修)という方向に落ち着いていった。

こうした議論を踏まえて2006年12月に「京都会館再整備の基本的な方向性に関する意見書」が提出された。
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000017/17030/ikensho.pdf

京都会館をどう位置づけるかについて、「オペラやバレエなどにも対応できる本格的な芸術ホールとして位置付け」という意見は、共通認識になっていない個別意見に分類されている。また競合施設との比較検討においても、対象に選ばれているのは、大阪厚生年金会館、神戸国際会館という多目的ホールであり、オペラハウスとの比較は行なわれていない。

 この意見書を基に京都市内部で検討が進められたはずだが、4年後に京都市が出した結論は、再整備検討委員会の意見書に反して、オペラハウスへの建て替えであった。

□京都に国内最大級オペラ劇場 市方針、事業費100億円
 (2010年12月24日 日本経済新聞)

「京都市は同市左京区の文化施設「京都会館」を全面改修し、国内最大級のオペラハウスに衣替えする方針を固めた」とある。「全面改修」となっているが、オペラハウスは、コンサートホールとは舞台や客席のつくりが全然違うので、実際には建て替えになる。

年が明けて、京都市から正式発表となる。

□京都に最大級オペラ劇場 2000席規模を計画 市が正式発表、意見公募
 (2011年1月24日 日本経済新聞)

ここでも「改修」という表現が使われており、予備知識がない人には、これが建て替えであることがわからないような文面になっている。オペラハウスでは、舞台装置を収納するために30m以上の建物の高さを確保しなければならないが、京都会館が建つ岡崎公園は15mの高さ規制がかかっている。法規制にどう対処するかは、この記事では明らかにされていない。(現状でも建物は15mを超えているが、既存建物だということで規制が免除されている。)もし仮に、舞台や客席を地下に埋めるような案が想定されているとすれば、それは「改修」どころでは済まない話で、明らかに建て替えということになる。それに大規模な地下工事があるとすれば、100億の予算で完成するとは思えない。

 2月になってこんなニュースが飛び込んで来た。

□京都会館命名権、ロームに 公募せず売却、市会委紛糾
 (2011年2月8日 京都新聞)
□「京都会館」命名権 50年で52億円 「ローム」獲得
 (2011年2月8日 読売新聞)

京都市は市議会に諮らずに水面下で交渉し、命名権(ネーミングライツ)の売却を決めたのである。

京都市は、財政再建団体に転落する寸前であり、財政的な余裕はない。事業費の半分を命名権売却で賄えるとなれば、それに飛びつくのは不思議ではない。だが、再整備検討委員会の意見書を事実上反古にしたオペラハウスへの方針転換と、ロームへの命名権売却は、リンクしているのではないか。状況証拠しかないにしても、そうした疑問が生じるのは当然だろう。いずれにしても、公共という概念のあり方がここでは問われているのだ。

 5月になって、京都市は「改修」が実は建て替えであることを認める。そして自ら定めた法規制をいとも簡単に緩和してしまう。

□オペラ誘致へ建て替え案有力 京都会館再整備
 (2011年5月23日 京都新聞)
□京都会館の建て替え、京都市が高さ制限緩和の方針
 (2011年6月26日 京都新聞)

5月の時点では「建て替え案有力」という報道だったが、6月には正式に「建て替え案を採用」となる。増築案と建て替え案とを比較した上での結論だとしているが、あらかじめ京都市としての結論は出ていたのだろう。「計画では、建築家前川國夫(まま)氏が設計した建物の保存改修を基本とし、その上で第1ホール(2千席)は解体し建て替える」と記事にはある。一見前川國男の設計を尊重しているかのような紛らわしい表現だ。ヴォリュームの過半を占める第1ホールを建て替えるということは、京都会館という建築を全面否定するに等しい。

kyoto-kaikan.jpg

 一部分だけが残ったとして、それで建築が保存されたことにはならない。空間構成が生きるのでなければ意味がない。建築は装飾ではないのだ。

 京都会館には正面と呼ぶべきものがない。あえて言えば南側(二条通り側)だが、それでも歩道がそのまま会議場の下をくぐって中庭に流れ込んでいるようで、建物の輪郭によって人の動きがせき止められることはない。中庭は、中でもあるし外でもあるのだ。その中庭に面して、第1ホール、第2ホール、会議場の入口がある。第1ホール入口のキャノピーを兼ねたテラスは、カフェテラスにつながっている。中庭に立つとき、何かの正面に向かい合うという感覚はまったくない。つまり威圧感がない。中庭にとどまるのもよし、目的とするホールに入っていくのもよし、振る舞いを人間の側にゆだねるような大らかさが、そこにはある。

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