京都会館問題を考えるシンポジウム(主催は、「京都会館を大切にする会」と「京都会館再整備をじっくり考える会」)が、10月10日に京都会館の第1会議室で行われた。定員の45人を大きく超える90人が来場した。誰がどんな発言をしたかといった具体的な内容については、他のブログ等でも紹介されているので、ここでは問題の核心部分だと私が考えていることについて述べたい。
京都市の計画案通りに建て替えを行ったとして、はたして京都市が言うような世界的なレベルのオペラが上演可能となるのか。ここでの「世界的なレベル」とは、例えばスカラ座で行われているオペラを連れてきた場合、本国と同じ演出で、舞台セットを変えずに上演できることを指す。京都会館の舞台は狭く、舞台装置も不十分なので、第1ホールを丸ごと建て替え、世界的なレベルにするというのが、京都市の見解である。しかしそうした京都市の目論見が、まったくの机上の空論だということが今回のシンポジウムで明らかになった。
仮に京都市の計画通りに舞台が整備されたとする。それによって舞台の奥行と舞台装置を設置するための舞台の高さが確保される。確かにそれだけを見れば、世界の一流劇場に遜色がない。ここまでは新聞等でも報じられている。だがその先が正しく報道されていない。世界的なレベルというのは、単に舞台の大きさの問題だけではないのだ。それが第1の問題である。
これまで「舞台」と呼んできたものは、実は主舞台のことである。世界の一流劇場は、主舞台以外に側面にも舞台を備えた多面舞台となっている。だから本国と同じ演出、同じ舞台セットを持ち込もうとするならば、京都会館も多面舞台とする必要がある。しかし敷地の広さの制約があり、計画されているのは主舞台のみである。この時点で既に「世界的なレベル」からは外れてしまうのである。別の側面から捉えると、本国と同じ演出、同じ舞台セットということにこだわらなければ、現状の広さの舞台であっても、一流劇場のオペラは上演可能である。
第2の問題は、自前の劇団や、オペラを上演するためのスタッフを持たないということである。つまり建て替えられた京都会館は、貸しホールなのである。オペラは外部から呼ぶことになる。裏方のスタッフも含めて丸ごと呼び寄せなければ、上演は成り立たない。自分達の芸術を発信するわけでもないし、ノウハウが蓄積されるわけでもない。単なる貸しホールを、世界は一流の劇場としては認めない。
そして第3に、本格的なオペラを上演するための舞台機構は、維持費がかかりすぎるということである。エレベーターと同様の機械装置なので、定期的なメンテナンスを続けなければ、機能が維持できない。そうした装置を使うような「世界的なレベル」のオペラは、1年に数日程度行なわれるだけだろう。しかし、たとえ使わなくても、メンテナンスを放棄するわけにはいかない。おそらく維持費だけで、ロームが命名権料として払う1年につき1億円という金(それを50年間払う)が消えていくだろう。京都市は、ロームから一括で支払を受け、それを建設費にあてるとしている。そうすると結局、維持費は丸々京都市の負担ということになる。
こうして見てくると、通常の思考回路ならば、京都市の案は白紙撤回になるはずのところだ。だが簡単にはそうならないのは何か裏があるからでは、と考えるのは、当然の成り行きだろう。この点ではシンポジウムでの西本さん(「京都会館再整備をじっくり考える会」事務局長)の指摘が一番鋭かった。第1ホールを解体した後で、「世界的なレベルにするには本当は第1ホールだけの建て替えでは不十分だ、どうせつくるなら良いものを」という論理で、京都会館全体を取り壊して更地にし、多面舞台を備えたオペラハウスを新規に建設することさえ目論まれているのではないのか。
「どうせつくるなら良いものを」という論理を警戒しなければならないと私は思う。この論理に建築家が迎合していく可能性は高い。建て替えの基本設計を請負った元東京大学教授の香山壽夫氏は、すでにこの論理に迎合してしまったと言えるだろう。私は面識はないが、温厚な紳士らしい。「自分が手を貸さなければ、京都会館はもっとひどい形にされてしまう」というのが、基本設計を引き受けた理由のようだ。それは善意から来ているのかもしれない。だが私には、それがハイデガーがナチスの側に寝返っていく過程と重なって見えるのだ。建築を語る時に、ハイデガーに依拠する建築家は多い。香山氏の場合は、ルイス・カーンを介した形でのハイデガーとのコミットメントのようだが、いずれにしても、建築論におけるハイデガー的なものを俎上に載せることは必要なのではないか。
(続く)
