建築とは、物なのか空間なのか。物があるからそこに空間が生まれるとも言えるし、空間があるからその中に物の居場所があるとも言える。結局は堂々巡りだ。ネガとポジのようでもあり、同一の現象を、それぞれ異なるフィルターで見ているようでもある。
20世紀は空間の世紀と呼ばれる。建築を空間というタームで語るようになったことは、一種の革命であった。近代建築(モダニズム)は、形ではなく、物と空間という建築の枠組を問題にしたのである。しかし近代建築が普及するに従って、物と空間との緊張関係が失われ、空間だけがあたかも建築の本質であるかのように語られるようになる。建築家は、口を開けばまず「空間」の話をする。そこで語られる「空間」からは、物との格闘の中から「空間」を獲得した、20世紀はじめの近代建築の精神は抜け落ちているのではないか。私がここで言いたいのは、結局「空間」というタームでは、京都会館の保存を論じることができないのではないかということである。
極端な仮定をしてみる。もし仮に、京都会館を一旦すべて壊し、元の図面に基づいて正確に復元したとする。ただし耐震性を確保するために鉄筋を増やすといった改変は許されるものとしよう。出来た建築物は本物と呼べるのかどうか。建築を空間と捉えるならば、空間は再現されているのだから、やはり本物ということになるのだろうか。伊勢神宮が20年ごとに建て替えられる例にしたがえば、こうした「保存」の方法もあり得ることになる。建築物が朽ち果てることがないのだから、空間は永遠に続くことになる。しかし、何かが間違っていないだろうか。
空間論に欠けているのは、「物自体」(「他者」あるいは「外部」と言っても同じ)である。もちろんハイデガーにもそれが欠けている。物自体は、空間という共通認識を成立させた根源であるにもかかわらず、共通認識が成立した後では忘れ去られてしまう。物自体とは、われわれが今見ている物のことではない。われわれが見ている物は、すでに共通の了解の下にある。だからわれわれは物を言葉で指し示すことができるし、物を利用することができる。そうではなくて、物自体とは、物が備えている了解不可能な他者性である。了解不可能であるが、そうしたものを想定することによってしかわれわれの認識が可能にならないような何物かである。
ベンヤミンは、「言語一般について、また人間の言語について」の中でこう述べる。
「精神的本質はある言語の内において自己自身を伝達するのであって、ある言語を通じてではない。それはつまり、精神的本質は言語的本質と外側から等しいわけではないということだ。精神的本質が言語的本質と同一であるのは、それが伝達可能である場合のみに限られる。ある精神的本質において伝達可能なものが、その言語的本質なのだ。つまり、言語は事物のそれぞれの言語的本質を伝達するが、その精神的本質を伝達するのは、精神的本質が直接、言語的本質のうちに含まれている場合に限られる。すなわち、精神的本質が伝達可能である場合に限られるのである。」
「精神的本質」というのが、物自体に相当する。人間が理解するのは、そのうちの言語化されうる部分、つまり言語的本質だけである。人間が言語の中でしか思考できず、言語の中でしか他人と共通の意識を持ち得ないとするならば、言語こそがすべての本質だと言うこともできるだろう。しかしベンヤミンはそうしなかった。言語的本質の背後に物自体として精神的本質を措定しなければ、言語は成立しないのである。そうしたパラドキシカルな関係にある。物自体こそが時間と空間の起源なのである。
例えば、何の価値もないようなありふれた石に、ある時貴重な資源が含まれていることが発見されたとする。石そのものは何も変わっていないのに、石の言語的本質は大きく変わることになる。人間にとって無用なものから有用なものへ。これを進歩と呼ぶならば、石そのものという変わらないものがあることによって、この進歩はあり得たのである。石に限らず、あらゆる物は可能性を持っている。それはある時点の言語の枠内で考えるだけでは、とうてい思いつくものではない。それにもかかわらず、ある一時点から過去や未来に思いを寄せること、それが結局は時代を動かすのだろう。
話を京都会館に戻そう。50年前にそれが建てられたときの評価を、現在のわれわれは知ることができない。それは資料が残っているとかいないとかいう問題ではなくて、50年前と現在とで、言語的本質が変わってしまっているからである。しかしそれは悲観すべきことではなくて、言語的本質が時代と共に変わるからこそ、歴史の証人としての京都会館がより輝くのである。逆に考えたらよくわかる。確固たる評価が定まり、それが延々と続いていくのが理想だとするならば、その建築物は物自体であることを止めてしまっている。だから精巧なレプリカとして建て替えても、支障はないことになってしまう。空間論の行き着く先は、物自体の否定なのである。
「どうせつくるなら良いものを」という論理には、現在の視点しかない。そうした論理を掲げる人たちは、過去の人がその建築をどう考えたか、未来の人がそれをどう考えるのか、そうしたことにまったく無関心である。そこには時間の概念がなく、歴史に対しての責任という概念もない。空間という言葉を弄びながら、空間の根拠を破壊するという、取り返しのつかないことに彼らは手を染めているのだ。
香山氏に限らず、われわれひとりひとりの建築家としての理念が問われている。建築家として本物か偽物かは、京都会館への対応を巡って鮮明になるだろう。
